引井総男の何か

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気ままな読書録17 『狗賓童子の島』感想

 舞台は1868年明治維新元年、隠岐2島の北側「島後」。主人公は1837年に起こった大塩平八郎の乱に連帯して戦った西村履三郎の子、西村常太郎。1846年に、罪人の子として15歳の常太郎は島後に流刑となった。

 物語はこの少年が流人として暮らしながら、島の医師から教えを受けて医療に携わり島びとの信頼を贏ち得て行く姿と、幕末維新に勃発した隠岐尊王攘夷反乱とをからめて展開する。歴史物語の舞台としては興味をそそる設定だ。

 思想的にも作者飯嶋和一大塩平八郎の窮民救済、隠岐正義党の自治精神に共鳴し、幕府や旧弊に准ずるだけの松江藩維新政府の無定見に反発しているのは明らかだから、私の考え方と通じるものがある。

 しかし読んでいてなぜかおもしろくなかった。歴史小説としては失敗作だと思う。なぜなら「狗賓童子」の影がきわめて薄い。狗賓の謂れは説明されているから判るが、読者はその霊が常太郎に憑るのかと「期待する」のに、「若先生」常太郎は立派な医師として終始する。狗賓は島後の山中に籠もったままだ。常太郎の人物は、いかにも幕末の先進的な医療従事者以上には出ていない。

 それとも「島」の方に重きが置かれているのか。たしかに隠岐の独自性に関しては今回の読書で理解が深まった。隠岐の島は島後と島前で地勢的にも自然条件でも異なり、島後は平地なく山がちで、海産資源を米作年貢に代えて「上納する」貧しい経済しか存在しなかった。そして漁獲の取引では遠方の港や鳥取米子藩との結びつきが強く、島根松江藩とは支配被支配の関係しかなかった。外の世界との交通や取引を経験して島後住民は開明的な気風を身に帯び、島の南東地域の湾に多くの海産取引庄屋を発展させた。彼らが尊皇思想を学んで正義党の中心を形成した。松江藩の搾取から脱して、安定し平和な経済生活を天皇政府のもとで送りたいと希望したのだった。

 それが学べたのは読書の収穫だった。この本を推薦していた東大資料編纂所教授の本郷和人によれば、書中で語られる史実に誤りはないそうだから、以上の私の理解も大方間違いないのだろう。ただ隠岐の政治経済を語るのなら、小説にしなくてもよい。また仮に小説にするのなら、こんな書名にしなくてもよい。

 西村常太郎の島後での生活を語る資料は少なかったのだろう。ならばもっと大胆に造形すればよかったろうに。主人公にしろ、主人公が交わる地域の住民にしろ、無垢な善人タイプばかりで、現実感が足りない。

気ままな読書録 水戸学とは何か

 岩波『日本思想大系』「水戸学」には、藤田幽谷、藤田東湖「壬辰封事」・「勧農或問」、豊田天功「中興新書」・「防海新策」、会沢安「退食間話」・「人臣去就説」・「時務策」、徳川斉昭「告志篇」などのあまり目にしない文書も収録してある。

 以下に教義的傾向と政治的な立場に分けて、特徴点を摘記する。

 まず教義的に言うと、水戸学は「一神教」的である。信奉すべき対象を複数持ったり、あるいは曖昧なままに放置したりはしない。「天地の間に大道は一つ」、「天地の間に至て尊きものは只一つならではなき道理也」(会沢、239頁)と言う。ただ一つの「道」とは言うまでもなく「惟神の道」、つまり神道である。

 しかしこの神道には教義が備わらなかった。正確には、言葉として明示されなかった。その理由を会沢は「神聖の彝訓を垂れ給へるも、言語を以てせずして、行事に因りて其義を示し、教をその中に寓せて、万民の法則となし給ふ也」と説明する(238頁)。こうした説明の仕方は会沢以前にも本居宣長がやっている。本居らの国学との相違は、水戸学は端的に教義文書的欠落(「神州には五倫はあれども、その名なし」会沢、242頁)を儒教で補うとするところだ。藩主の斉昭からして、「神代のむかしより備りたる」「神国の道」と中国古代の「漢国の道」の両方を受け入れると表明しているし(213頁)、荻生徂徠新井白石神道軽視の故に批判した返す刀で、儒教を排斥した本居を批判している(会沢、243頁)。神道儒教が「賛ける」という関係で位置づけている(会沢、242頁)。

 儒教を受容した結果、統治の最高権者に「仁」を要求する見方が導き入れられる。人君には「人民に孚信ある」ことが求められ(豊田、201頁)、また南朝正統論は根本的な点で「後醍醐不徳にして、賢才を用ゆる能わず」というのが根拠だとされる(豊田、199頁)。仁徳を有しない天皇は、水戸学では呼び捨てにされる(笑)。水戸学は「革命思想」なのである。

 水戸学というと「大義」を重んじるコチコチの忠孝思想と思いがちだが、少なくとも主導者たちはそうではなかった。特に後期会沢は、統治権者に仕える者(家臣団)は主君の言動に応じて自らの去就を決すべしとのプラグマティズムを言明している(会沢、354頁)。

 さて続いて政治論。水戸学は誰に対して語られた思想なのかと言えば、武士である。「凡そ武士たるもの、武道を励まずして叶わざる儀は、各々も承知の事に候へども、不学文盲にては相済まざる事と存じ候」とは藩主斉昭の言葉だ(212頁)。武士としての身分は自ら努力して手に入れたのではない。自分の藩主としての地位も「生まれながら飽までに食ひ煖に衣て、今日迄枕を高く安楽に暮し候は、誰が恩にあるべきや」との意識で勤めている(211頁)。当為として平然としてはおらず、実に謙虚な姿勢だと感心する。その点、藩主だけではなくたとえば藤田東湖も父親幽谷のお蔭で過分の取り立てを蒙っていることに感謝しており(189頁)、武士身分を支える生産階級たる農民への眼差しも行き届いている(東湖「扨々百姓ほど因果なものは御座なく候」(185頁)、斉昭「朝夕食する所の米穀は、粒々民の辛苦にして」(219頁))。

 ただし農民への見方はある意味では紋切型であって、この巻の挟み込み月報に山川菊枝が指摘する通り、現実に水戸藩の初期にあった農民大虐殺事件を不問に付しての「思い遣り」は偽善以外の何ものでもない。

 それはさて置いて、とにかく水戸学は太平の世に馴れ切った武士に活を入れる思想運動であることは間違いない。その限りでの「直言極諌」も奨励された(斉昭、224頁)。これを会沢の文章でまとめると次のようになろう。「基本とする所は、神を敬し、聖を崇び、神道は即ち聖道なりと心得て、大道の本意を失はず、文武の道を学びて、其芸をも熟練し、衆思を集め、群力を宣べ、忠孝を尽して、国恩に報い、神聖の霊も降臨ましますに至ん事を、片時も忘るべからざる也」(256頁)。国家主義集団主義的な思想運動の観を呈している。それは「芸」よりも「道」の方を重んじる思想にも現れていて、単なる武芸・文芸は「輪」のない「車」のようなもので、事を動かすのは「道」、すなわち「国家の干城となる」こと、「国家の事体を明にして、公侯の腹心共となるべき」ことだった(会沢、253頁)。まさに「国家神道」である。

 日本は「神国」だから、蒙古襲来を撃退したように外国に犯されないという神話は語られず、むしろ「元来神州は唐土等とは相違、小国にして外夷のために侵され易き勢これあるが故に」武威が尊ばれたという理屈が採用されている(豊田、346頁)。こうした政治論は明治時代に入っても「国体思想」として生き長らえると見られる。

 しかし水戸学の上記の特徴は、限界性も孕んでいることに気付く。先述の「革命思想」は明治維新政府の公式イデオロギーからは排斥されることになる。また南朝正統論も、明治天皇北朝系の天皇だったため、やがて取り上げられなくなる。主として教義的な側面は後景に退いて行ったと言えよう。

 最後に残ったのは、下からの発議を封じた国家神道運動だけだった。