引井総男の何か

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抹殺博士 重野安繹伝2

学者政治家
 重野が歴史に名を留めるようになったのは、幕末維新という激動期に際会したからとも言えるし、また重野の才能資質がそんな激動の時代に適応していたからとも言える。なんとなれば彼は才識のみ優れた「儒者」でもなければ血気盛んな「志士」でもなかった。
 薩英戦争を表向き敗北したものの内実で引き分けに持ち込んでいた薩摩藩は、戦後処理交渉において只管に「敗戦国」として振る舞うつもりはなかった。第一に当時この国は徳川幕府が統治する封建制国家なのであるから、中央政府である幕府の政策に従うことはなんら対内的には問題がない。そしていかに強制された形であっても、幕府は「異国」との条約を破棄して「攘夷」方針を執ると、もう一つの政府である天皇制朝廷に約束していたのだ。鹿児島湾に侵入したイギリス軍艦を攻撃した薩摩藩の行動は、幕府政策に従ったまでと言えた。
 第二に、大名行列を攪乱する行為を取り締まるのは武士統治においては常識であった。そもそも大名が隊列を組んで往来を行進する時だけでなく、一個の侍が侍ではない身分の者を「無礼」として切り捨てても罪には問われない社会だった。ましてや時の政治的情勢を左右するほどに強大となっていた薩摩軍の陣列を、こともあろうに「夷人」が乱したのである。それをもし見過ごした場合、行軍の責任者は罰せられた可能性が高い。
 そして第三に、重野が交渉に際して大胆でいられたもう一つの理由がある。有名な逸話として残っているように、薩英戦争の最中に五代友厚と寺島宗則の二人はイギリス軍艦に投降して乗船している。薩摩藩政治の懐の深さを如実に示す史実として名高い。平たく言えば、戦っている当の相手と和解する道も探っているということ。五代、寺島の二人は横浜港に着いて後、国内逃亡を余儀なくされるとはいえ、イギリス海軍に相当の損害を与えた薩摩藩の軍事力・政治力に畏怖の念を覚えた駐日大使は、幕府よりも反幕府勢力の実力を高く買う姿勢を執るように転換する。
 重野安繹はこうした政治情勢の変化を敏感に捉えていた。賠償金は徳川幕府に支払わせ、同時に薩摩藩はイギリスから軍艦を購入するという離れ業を成し遂げたのが、重野の交渉力の賜物だった。
 横浜での交渉の最中、薩摩藩江戸藩邸には大久保利通がいた。重野は大久保と連絡を取りながらイギリス人との会談を重ねた。また交渉場には岩村が同席していた。重野は大久保を尊敬していたようだが、岩村とは後に対立する立場に到る。