引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

マルチン・ブーバーとグスタフ・ランダウアー

 現代ドイツ史学者の三宅立氏の論文の注に2人の関係に関連する記述がある。論文本文では第1次大戦後ドイツの「中産階級左翼共同体主義の諸サークル」の一つとして研究者のランが挙げているのが、マルチン・ブーバーがベルリンで開いた「シオニスト社会主義者たち」(注7)だという指摘。同時期にグスタフ・ランダウアーも「社会主義同盟」を組織していたと併記してある。
 もう一つは注の50番。「同時代人によるランダウアー論として最も注目されるものの一つは、友人ブーバーの手に成るものであろう」として、ブーバー『ユートピアの途』(原著は1950年発行。日本では1972年に理想社から長谷川進訳により出版。)が掲げられている。
 ランダウアーが右翼の暗殺に遭ったのが1919年だから、1878年生まれのブーバーは41歳。ランダウアーは1870年に生まれて50歳になんなんとした時に殺された。9歳上の「友人」がランダウアーだったことになる。
 ブーバーが主著『我と汝』に続いて1932年に書いた、『我と汝』の解説書とも言える『対話』に「あなたがたの合理化を押しすすめよ、しかしあなたがたの中にある合理化を行う理性を人間化せよ。世界と相互関係に立つことを望んでいる生きた人間を目的と計算の合理化に導くがよい」と書いている(岩波文庫版236頁)。革命の時代にブーバーも「新しい人間」を希求していた。「状況を背負いながら彼は、新しい状況に出会う。にもかかわらず、すべての多様化と紛争化のさ中において、彼はやはりアダムなのである」とまで言ったのだ(同239頁)。ヒトであろうがモノであろうが、対象との全一的な通じ合いを取り戻そうと望んだブーバーの宗教思想においても、当時の「社会主義」は寄り添うに足る存在だったと見られる。
 私は社会主義思想の歴史的意味は、人間性の回復にあると思っている。マルクスヘーゲル批判の過程で「疎外」を熟考したように、資本主義経済の進行によって最大に失われたヒューマニズムが、ブーバー謂うところの「我と汝」の関係だったと思うのだ。1917年ロシア革命もそうした「思想状況」の渦の中で起こった。
 レーニンはじめボリシェヴィキの党員皆が同じだったとは言わないが、ルナチャルスキーやボグダーノフらメンシェヴィキに比較すると、総じて最大公約数尊重の気風がある。メンシェヴィキは最小公倍数を追い求めたが故に、一点集中ができなかった。1917年に政権を奪取しようと図るなら、ボリシェヴィキ戦術に則るしかなかっただろう。問題は「ロシア革命」が1917年のロシア帝国一国に留まらず、世界革命に連なる事態として敷衍化されたところにある。その経験が「インターナショナル」な規範として他の国民国家や民族独立運動に適用されたから「間違い」が生じた。
 資本主義とて様々なバリエーションを持っているように、社会主義にも独自の形式があっていいのだ。ブーバーの「シオニズム社会主義」、ランダウアーの「農村アナーキズム社会主義」、リープクネヒト=ルクセンブルクの「コミューン的社会主義」、そしてこの国の友愛会社会主義など、百花繚乱の華やぎをそのまま開花させればよかった。
 ともあれ私は学んだ。イデオロギーとしての社会主義には、多くの改革家を糾合する魅力が胚胎していることを。
 ブーバーはもしかして猫が好きだったのだろうか。『我と汝』にこんな記述がある。「わたしは時おり、猫の眼を見ることがある。飼いならされたこの動物は、われわれがふと想像することがあるような意味で、真に<語りかける>まなざしを与えられているわけではなく、動物ならざるわれわれに視線をかえす能力をもったにすぎない。しかるに、そうなると、猫のまなざしのなかに、やがてじょじょに驚きとともに、もの問いたげな様子があらわれてくる。」(同書122頁)。なんと周到な鋭い観察眼だろう。猫を愛する人なら、ブーバーの言わんとすることは理解できる。「我と汝」の関係性を切々と語るブーバーの意図が、この喩えで以って良く判るのだ。猫の眼を見るとき、たしかにその眼は「それ」ではない。私たちは、「汝」を欲する。