引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

この国の法観念

 御成敗式目貞永式目)の補注に、ゲルマン法が証人主義だったのに対し、この国の中世法は証文主義だったとあった。文字はヨーロッパ大陸よりも相当遅くに使用され始めたのに、この「東海の島国」では文書に書かれた文字が幅を利かせて来た。
 中世の公文書は恰も場当たり的に書かれているように見えるが、まったく違う。これはヨーロッパ古代・中世と変わらず、立派な書式が定まっていた。朝廷が発行する書類、幕府が諸領主に発する通達、すべて決まった形式があったのだ。逆に言えば、文書の定式があったればこそ正統性を求める習慣が形成されたと言えよう。
 この異常とも思える文書至上主義は、文字を遅れて使い出した「後進国」である故のこだわりであったのかもしれない。
 そしてもう一つ、明文法に基づく規範意識の発達の問題にも、注目すべき点がある。尾藤正英が指摘しているのだが、公家法が肯定命題であるのに対して、武家法は否定命題として法文を書いているという。言うまでもなく近代法は基本的に否定形で書かれているのが特徴だ。「こうあるべし」と肯定表現された法文は、市民の日常行動を規制する方向に働く。一方「これをしてはいけない」と否定表現された法文があれば、規制された事柄以外の自由を獲得できる。よって一般に近代市民社会に似つかわしいのは否定表現で書かれた法文ということになる。
 御成敗式目が書かれた13世紀前半は、公家法の統治から武家法の支配へと転換する時期だった。それを決定的な契機として、石母田正が言っているように、この国の法規範は否定命題を判例重層的に積み上げて行く。この辺り、たとえばイングランドの法規範の歴史と似ているのではないか。
 明治維新に西欧諸国から、この国には「法律」が整っていないと批判されて、刑法、憲法民法の順に「近代法」の成文化が果たされて行った。刑法は法の性格上、否定命題の体系だからまだしも、肯定的表現たらざるを得ない憲法や、判例蓄積型の民法を起草した人たちは、さぞかし苦心したに相違ない。憲法草案を書いた井上毅が、苦労を身に沁みて味わったからこそ民法制定に反対したのも宜なるかなというものだ。そもそも「証文主義」で通用していた民事的な諸事象に、国家が成文法を被せるのは「屋上屋を架す」ばかりか、円滑な市民活動を制限することになりかねないと考えた節がある。
 現在でも「日本国民」の法意識の脆弱さをあげつらう論調があるが、御成敗式目を読み進むと、それがいかに的外れな指摘であるかが判る。御成敗式目は御家人の争論ばかりではなく、「凡下」「雑人」「百姓」の訴訟についても規定している。この国の法的規範意識は歴史的に見ても決して希薄ではない。むしろ旺盛であったればこそ、明治維新からの短期間に「近代市民意識」を獲得できたのだと言えるのではないか。