引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

気ままな読書録4 本居宣長「うひ山ふみ」

 宣長神道を「神の道」と考え、「人の道」とは毛頭考えていない。神々の行跡を古事記の神代に関する記述によって跡付けるというのが、彼の学問の目的であり、また方法であった。その結果得られた知見は飽くまで学問的知見であって、民衆の生活規範とは全く関係がないと考えていた。その証拠に、自らの日常生活は当時の風習に従っていて、どこも「神式」なところはない。反対に民衆が「神の道」を実践するのは、それが神道家であろうと、いかにもオコガマシイことと語っている。

 私は今回『うひ山ふみ』を読んで、初めて本居宣長の考える所を知った。上記のような宣長の思想は、少なくとも国学神道を学んだ人たちの間では常識だろう。しかし幕末維新期の国学神道家の言動を散見するに、この常識が果たしてどこまで通用していたのか訝しく思う。現在読書中の島崎藤村『夜明け前』に登場する平田派国学に心酔した人々の求めたもの、維新なって政府の神祇職に就いた国学神道家が目指したもの_それらはどう見ても「人の道」たる神道であった。

 国学神道史の人的系譜は、契沖-荷田春満賀茂真淵本居宣長平田篤胤というつながりを教科書では教えられる。宣長が契沖から自身までは自ら語っている。私が知らないのは宣長と篤胤の連続性ないし不連続性だ。宣長には世俗に対する拘泥心のない、学者的な淡白さが認められる。ところが篤胤となると、どうもそうではなさそうだ。これは読んでみないと判らないことだが、たとえば大国隆正だかは、自分の師であった篤胤をして学問的には高く買ってはいなかった。

 仮説として篤胤が神道の「人の道」化を推し進めたのだとすれば、その思想史的な転換は非常に大きな意味を持ったと言わねばならない。結局は「人の道」化は挫折して、却って「神道=非宗教論」が国家の非公式見解とされるに至るものの、幕末維新を突き動かした強烈で執拗な衝迫力を醸成したのは平田派国学神道であったのだから。まるでそれは膨大なエネルギーを発散して急速に冷却した黒色矮星のようだ。もしかしたら巨大な質量を保持したまま、なお近づく者を吸い込んで離さないかもしれない。

 宣長が語った神道によれば、この国には神と民しかいない。民は神を敬するだけで、神になることは金輪際ない。神は天皇一人である。こうした社会観_神と人との二元的社会観こそが、この国の伝統的観念の最右翼と言ってよかろう。神に直属し、直属することで利益を配分されている官僚や兵士には神との直面意識は希薄な一方、神から遠い民こそまるで眼前に神を拝しているかのような直面意識を持つという「中抜け」現象が認められる。神武の時代に「復古」が成ったと仮構されたのに関わらず、皇族・公家、更に華族らには天皇(神)が親しく献身的な奉公を促迫せねばならないくらいに、神に対面している意識に乏しい。江戸時代から維新初期にかけて最も精力的・献身的に尊皇実践に励んだのは、決して神に見えることはないような下級武士、地方の郷士、豪農・豪商たちであった。

 大木は自らの体に宿木を養えるほどに巨大であればこそ、遠く離れても仰ぎ見るものだ。巨木の体に根を張った宿木は余りに近くにいるので、木の大きさが認識できない。大木の方も宿木のお蔭で風雨の激しさを緩和できるし、また自らを大きく見せるのに役立っていることも知っている。宿木にとって最も厭うべきは、仰ぎ見ていた者たちが我も我もと木を上り始めたり、巨木を守ろうと宿木を伐採し始めたりする行為であった。巨木の利益も、おそらくは宿木に近く、仰ぎ見る者たちから遠い。