引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

抹殺博士 重野安繹伝1

徳之島
 重野安繹は東京帝国大学教授にして貴族院議員として、名誉のうちに没した。その80年以上に及ぶ長い生涯の初期は、その時代の多くの武士身分の青年が見舞われた時代転換の波頭に翻弄された。
 若き重野は薩摩藩の儒官(学者)として研鑽を重ね、20歳を越えると官費で江戸の昌平校に留学している。外様と言っても、幕末期に薩摩藩長州藩の政治力は抜きん出ていた。薩摩には藩主島津斉彬があり、長州には藩主に信頼された有能な家臣団、その筆頭は長井雅楽らがあった。重野は薩摩藩士という看板を掲げて幕府の最高学府に学んだに違いない。
 当時の昌平校は林述斎塾頭のもとで、佐藤一斎が名声の頂点にいた頃だった。この佐藤一斎は日本国のヘーゲルにも喩えるべきキャパシティーを備えた学者だ。官学としての朱子学のみならず陽明学にも通じ、更には洋学にも関心を向け、時計が趣味の洒落者らしさも併せ持っていた。そんな八方美人を、たとえば世には洋学者として知られる、一斎の弟子の一人佐久間象山は批判しているほどだ。かの大塩平八郎中斎も師事したほどの人物である。
 若き重野もそんな佐藤一斎の門下生の一人として昌平校に学んだ。おそらく芝の薩摩藩江戸藩邸から湯島の昌平校まで馬で通ったのだろう。塾頭の述斎の提案によって、当時の昌平校の教官連は講義の向上のため落語家の語り口を学ぶ努力をしていたのだそうだ。堅苦しい幕府公認の学校というイメージとは、実態はだいぶ相違していたのではなかろうか。
 重野はここでも頭角を現し、教授職を任じられるほどに教養を高める。ところがある日事件が発生する。塾生の一人の金が盗まれ、こともあろうに重野が犯人として疑われたのだった。事件の真相は解明されなかったらしいが、重野は犯人視されたことを不名誉とされて薩摩への帰国を命じられる。
 薩摩藩では斉彬歿後、久光の政治が幅を利かせていた。党派の流動化が起こっていて、西郷隆盛尊王攘夷派の僧侶月照を庇って自殺を図った罪で徳之島へ流罪に遭っていた。帰国した重野も、西郷の後を追うような形で徳之島へ流される。
 その島で、生麦事件に端を発する薩英戦争の戦後処理交渉のために召還されるまでの数年間を西郷と伴に過ごした。