引井総男の何か

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抹殺博士 重野安繹伝6 

大物学者
 「久米事件」の責任を取るという名目で重野も帝国大学教授を辞職している。かの井上毅文部大臣に就任した直後の出来事だった。世はまさに国粋思想の台頭期。頑是無い保守反動論者の騒動を治めるためには致し方ないという判断が、支配主流の下した結論だったのだろう。
 それよりも前、帝国議会開会に臨んで重野は一つのエピソードを遺している。主流藩閥出身の帝国大学教授として貴族院議員に選出されていた重野は、読み上げられた開会の詔勅に対して異議を唱えたのだ。言われてみればその通りだろうが、しかし字義に関する枝葉末節に拘泥する論だった。歴史認識では対立していた水戸出身の川田剛も、この時は重野に賛同して発言している。結局は重野の疑義に大多数の議員が賛成せず反対論は葬り去られたが、有名な「事件」であったらしく十数年後にも語り継がれた。
 帝国大学辞職後しばらく東京専門学校(早稲田大学)に籍を置いたが、1890年末には再び帝大教授に復職している。因に久米邦武は東京専門学校にそのまま在職し続ける。この差が興味深い。両者の学問的素養の相違に拠るのか、それとも人望か、はたまた薩摩出身と肥前出身という藩閥の違いに起因するのか、とにかく京都にも帝国大学が誕生したので東京という名が冠された帝大に重野は戻って来た。相変わらず史料に厳密に依拠する実証主義史学を唱導して止まなかった。その下から多くの第二世代の歴史研究者が生まれたのだった。
 重野安繹のイデオロギーは純然たる主流的保守に他ならない。『教育勅語』の解説書たる『教育勅語衍義』を書いて出版していることにも、それは現れている。『勅語』の解説は各種出版されているが、草案起草者たる井上毅自身によるもの、帝国大学哲学教授の井上哲次郎によるものなどに比較しても、重野のものが最も説得力に富む。重厚な学識の裏付けを感じさせないではおれない。
 死の数年前、ウィーンで開催された国際学会に、この国を代表して東京帝大の数学教授菊池大麓と二人で出席した。菊池は江戸時代以来の学者の家系である箕作家の一族。文部大臣も経験していた。そのような人物と並んで遜色のない大物学者として生彩に満ちた○○年の生涯を終えたのだった。