引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

ビートルズ(2)

 ビートルズディスコグラフィーを眺めていると、初期はジョンの存在が大きいと解る。リード・ボーカルを取っている曲数はジョンが最多、おそらく曲作りもレノン&マッカートニーとクレジットされてはいてもジョンがやっているらしく聞けるものが多い。ビートルズのリーダー格と看做されていたのだから当たり前なのかもしれないが、ビートルズを世界的な存在に押し上げた原動力はジョン・レノンだったとしても過言ではないのだろう。
 しかし果たしてそのまま「ジョン・レノンをリーダーとするバンド」を突き進んでいたとして、ビートルズは果たしてビートルズたり得ただろうか、私は疑問だ。ジョンはビートルズ4人の中では最も「前衛的な芸術家」センスの持ち主とされているが、私にすれば少なくとも初期のジョンは必ずしも革新的ではない。売れ筋のロックンロールを作り、シャウト調の歌唱がうまい人物という次元をどれほど越えるだろう。あるいはポール、ジョージ、リンゴという個性を束ねるリーダーシップの才は認めるべきかもしれない。身だしなみを整えた、コーラスの巧みな、ルックスのよろしいロックバンドとしてマネージャーのブライアン・エプスタインが売り出そうとしたアイドル・イメージ通りに4人をまとめたのが、ジョンだったとも思える。
 何度か聞き直すと、ジョンの曲作りにまず変化のきっかけを与えたのはポールのバラード、そしてジョージのインド音楽に違いないと思えてくる。そもそもビートルズのデビューシングル「ラブ・ミー・ドゥー」からして当時のヒット曲の常識を驚かす怪曲だ。歌詞は単純極まりないラブソングだが、メロディーは陰影の濃い「暗い」トーンで、テンポも緩やか。私が想像するに、この曲も歌詞をジョンが作り、メロディーをポールが作ったのではないか。デビュー曲として革新的ではあっても商業的には失敗作だったから、ビートルズは明るく元気なロックンロール路線、つまり「プリーズ・プリーズ・ミー」のような曲作りに転換した。その方針転換を担ったのがジョンだったのだろう。
 ポールも「ラブ・ミー・ドゥー」の不発に滅げたのか、1963年同年に「オール・マイ・ラヴィング」のような明朗快活なテンポの良い曲を作って歌っている。それでもポールは性懲りもなく、翌1964年には「アンド・アイ・ラブ・ハー」や「アイル・フォロー・ザ・サン」というメローな佳曲を作った。そして1965年、アルバム「ヘルプ」に「イエスタデイ」が収録される。
 ジョンはポールの作曲の才能を高くは買っていなかったそうだが(楽器の演奏はうまかったと誉めている)、ジョンのバラード調の曲は中期以降に現れるのだから、ポールの影響は必定だろう。ともかく上手下手は別にしても、作曲の幅広さではポールがジョンに優る。劣る方が優る方を高く評価しないとしたら、嫉妬と言わずしてなんと言おう。
 1965年の「ヘルプ」と同年末に出た「ラバー・ソウル」との間の懸隔は巨大だ。ここでポールは「ユー・ヲント・シー・ミー」と「ミッシェル」しかポップ・バラードを作っていない。一方でジョンは「ノルウェイの森」「ノーウェア—・マン」「ガール」「イン・マイ・ライフ」と佳曲を連発している。「オレだって、そのくらい作れるんだ」と言わんばかりのメロディーメイカー振りだ。
 これにジョージが加わって、3人による曲作りの競争状態が始まる。ジョージ・マーティンも3人に触発されて、それぞれの個性を活かすアレンジを提供する。1965年と66年の2年間に作られ発売された「ラバー・ソウル」「リボルバー」「サージェント…」の3枚は、こうして1960年代中盤という時代のロック・ポップ界の水準を抜く傑作となった。曲の良さ、ポールのベース・アレンジ・演奏に代表される4人の楽器演奏・アレンジの上達・工夫、ジョージ・マーティンのアレンジ・エンジニアリング・ミキシングの巧みさが相俟って、幾度聞いても古びないジャズ演奏のようなポップ・ロック作品に仕上がった。