引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

中江兆民とビゴー

 風刺画集『トバエ』で有名なフランス人画家ビゴーと中江兆民は知己の間柄だった。
 明治14年政変の翌年1882年に来日したビゴーは、海軍兵学校画学教師としての職を目当てに浮世絵の国日本にやって来た。幕末日本から欧米に流れ込んだジャポニズムに感化された芸術家の一人だった。ビゴーを日本に赴かせるにおいては、1870年代にフランスにあった大山巌との出会いが機縁となったようだが、そう言えばロシア人革命家にしてイタリア統一戦争にもガリバルディ軍に参加したメンチニコフも大山が招聘したのだった。政治家としての大山巌は大した業績を残していないが、個性的な異能の外国人をこの国に導いたことで歴史に貢献している。
 ともあれ画学教師としての安定した生活を送れたのは二年間だけ。失職した理由は不明だが、職にあぶれたビゴーを救ったのが中江兆民だった。もしかしたら兆民ともフランスで見知っていたのかもしれない。兆民主宰の仏学塾フランス語教師として断続的に半年ずつ、延べ二年間に亘り教鞭を取っている。
 1880年代中盤から1890年前後にかけての兆民は自由民権運動の輝ける星だった。但し注意を要するのは、この時期に『三粋人経綸問答』を執筆出版していること。この書をものして兆民は、徳富蘇峰を伴って井上毅に批評を請いに出向いているのだ。過激主義に走って華々しく散るようなロマンチシズムとは無縁なリアリストなのである。
 そんな兆民が画才豊かなビゴーに託して当時の支配的政治家たちを揶揄痛罵する漫画を描かせた。仏学塾教師の職の後に、『トバエ』は出版された。絵に付けられた日本語キャプションを執筆したのは、兆民も含む仏学塾の面々だった。「保安条例」発令下の当時、治外法権に守られた横浜外国人居留地には言論出版の自由が保たれていた。自らの自由を制限され東京を追放された兆民は、治外法権による自由を利用してビゴーに薩長専制政治批判を為さしめた。
 これが二人の関係の真相であろう。やがて1889年の国会開設、兆民の衆議院議院当選という事態の進行とともに、二人の結びつきは薄れて行く。