引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

井上毅の「偉大さ」

 生涯については遠山茂樹大久保利謙坂本多加雄羽仁五郎、木野主計、憲政史については稲田正次、坂井雄吉、教育では海後宗臣、山住正己、野口伐名などの錚々たる学者が、井上毅にとりついて研究している。高々51年の人生、そのうちでも官僚として25年ばかりの経歴がかくも大いなる成果を齎し得たのは、この国の史上に希有の出来事ではなかろうか。これに匹敵する国家的な官僚とすれば、古代の厩戸皇子聖徳太子)とされる人物、中世の菅原道真大江匡房、近世の新井白石くらいか。井上亡き後、近現代に一体これほどの官僚は現れたか。
 思えば井上毅はある意味で恵まれた環境下に生きたのかもしれない。本人の主体性は閑却できないとはいえ、伝統的・官学的朱子学と、この国の最後期儒教の特徴たる陽明学的・プラグマティックな思想的鍛錬を経て、生地たる熊本では後の明治天皇側近、横井小楠と接触する機会を持ち、更にフランス語修業の過程の東京では安井息軒にも思想的な感化を受けている。山路愛山によれば、息軒は最も優れたキリスト教批判者とされる。息軒の『弁妄』からの引用を読んでいると、なるほど「唯物論」だらけである。そんな息軒と相対して井上は何を感じたのだろう。
 そして1870年代の法制官僚として讒謗律や新聞紙条例などの刑法、府県会法などの地方行政法官吏懲罰例などの公務員規則の立法化の経験を積んで、遂に「明治14年の政変」を自ら演出して政治の表舞台に躍り出ると、途端に後ろに下がって外交と憲法制定準備に集中するという鮮やかな身の処し方を示し、その後は私的な時間に旧東京大学、新帝国大学国学者に教えを乞うてこの国の伝統思想の吸収に努めている。    
 1880年代の井上の国学志向は、明治憲法皇室典範教育勅語を書く為の準備であると同時に、本居宣長に代表される伝統的国学止揚の作業でもあった。なんとなれば、井上にとって国学は主体の大和魂を昂揚させるだけの慰み物ではなく、支配の原理に援用さるべき理論的客観的基盤であった。この国の「国体」に合致する原理的イデオロギー国学の精華の中から探し出さなければならなかった。それがかの「しらす」の用語に集約された精神なのだった。
 ともあれ井上の中には、上述のようなこの国の1800年代の伝統保守思想の精髄が凝縮されている。もし真剣に統治の原理を追い求めたのであれば到達したであろうような、見事に理想的な制度設計を試みたのだった。明治時代の多くの「民権論者」から、敵ながらあっぱれと見られた、大いなる人物であった。味方からばかりではなく、敵から畏敬せられて初めて本物だ。