引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

気ままな読書録5 中勘助『提婆達多』

 シッダールタにデーバダッタという親族があったとは知らなかった。いかなる関係かは明確ではないそうだが、作品中では従兄弟と看做されている。どちらにしろシャカ族の一員で、当時の王族である。

 シッダールタは「凡夫は欲望と貪りとに執着しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この世の地獄を超えよ」と説く人だった。それに止まらず、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ」とまで唱える高等な思弁性を獲得していた(中村元による『スッタニパータ』翻訳による)。西洋のアウグスティヌスに先立つこと1000年、デカルトには2000年も先行している。

 紀元前7世紀頃インド地域に展開されたウパニシャッド運動最終期の最高峰と呼ぶべき先鋭で徹底した思考の産物だった。このシッダールタに対抗した同族がいたのだから、驚く。

 ところがデーバダッタはシッダールタの聖性に拮抗する思想を生み出したのではなく、シッダールタを俗性において理解して対抗した。最初は女性を巡って、後半生では名声を巡って。中勘助はデーバダッタが終始俗的な観察しかなさず、その次元を越えなかったと捉え表現している。シッダールタの聖性はほとんど描写されていないが、デーバダッタのどす黒いまでの俗性を執拗に読まされる私たちは、否応なくシッダールタに聖性を意識する。

 それにしてもこの私が二人のどちらに近いかと言えば、デーバダッタの方であるのは間違いない。「欲望と貪りとに執着している」のが私の現実の有り様だ。年老いたデーバダッタが老衰と病身に鞭打って、渾身の力を奮い起こしシッダールタを暗殺せんと道を辿る途上で一生を終わったと作者が書いた後、小説の最後の行に「もしそこに我々に救いがあるならば、提婆達多こそまことに救われるであろう。提婆達多が救われずば、我々の誰が救われるであろうか。」と記した意義が、私には「救い」であり、それでいてまた救い難い己が凡俗性を意識させられる縁にもなっている。