引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

気ままな読書録16 『近代の超克』感想 その二

 しかし「文学界」知識人や京都学派の発言は、一見しただけではデマゴーグに見えないだけでなく、なぜそこから戦争肯定に繋がるのか判然としないものも多い。なんとなれば西欧のご当地でも「西洋の没落」が取り沙汰されていたのだから。特に京都学派の人文学者や下村寅太郎、菊池などの自然科学をやった人にとっては、日本的ならぬ「近代」自体が大きな曲がり角にさしかかっているとの認識で共通しているようだ。

 だから活路を「大東亜戦争」に見出そうと安直に流れている諸井三郎(「根本となるのは、精神の恢復といふ事である。」(57頁、論文))、鈴木成高大東亜戦争は「やはり一つの近代の超克ということであるといって宜しいと思う」。(176頁、発言)津田秀夫(米国で発達し、ソ連ナチスドイツで活用されている映画を、国民教化に積極的に利用すべきと提唱。259頁、発言)らは、太平洋侵略戦のみならず大陸侵略戦の政治性を閑却して、単にこれまでとは違う何かに賭けているだけだ。もしかしたらそれが「近代の超克」になるかもしれないと。

 その点彼らのなんと観念的であることか。竹内好が剔訣しているように、彼らにとっては「戦争の現実」ではなく「戦争の見方」が問題にされているに過ぎない(336頁)。この眼前に繰り広げられる残虐を見ず、政治的不当性も見ず、ただただ「戦争の目的やもたらす効果をどう解釈するか」に係わっていただけだといって、一体彼らの責任は放免されるのだろうか。驚くべきは、戦後の大学にも言論界にも彼らのほとんどが堂々と登場していることだ。なんと「大きな責任」には甘い国か。

 この会合に加わった学者・言論人のうち、日本ロマン派や文学界国粋主義者、そして京都学派の似非学者連に比べれば、上記の下村、菊池は沈着冷静であるし、私が意外だったのは中村光夫論文の穏当さだった。ここで中村は「近代への疑念」を表明しているに止まり、それ以上の勇み足を踏みとどまっている(150頁から)。こうした認識レベルはおそらく「西洋の没落」にも通底する普遍的なもので、今日的な課題でもある。

 さらに付け加えれば、亀井勝一郎が「明治以後の文明の特色として」「いろいろの仕事が極度に分化して専門家が続出した」点を指摘し、そうした専門家としての教育を受けながらも普遍的な観点を失わなかった人物として内村鑑三を取り上げ称揚している(233頁)のは注目に値する。1891年の不敬事件の張本人は、50年後の1942年に国粋主義者から最早免罪されていたのだろうか。おそらく亀井は内村の「転向」を念頭に置いて高く評価し、戦時の転向を促進する意図を包蔵していたのではないかと思われるが、しかしここで指摘している専門分化した知識層が理念的な問題から遊離する傾向自体はインターナショナルなものであって、これまた今日的な問題だ。

 こうした普遍的でロジカルな問題意識と、眼前に繰り広げられつつある侵略戦の現実を糊塗する情緒的な必要性論とが「近代」の捉え方を巡って回転している。これがこの本の表わしている1942年の時代性だ。

 巻末の竹内好論文も力作だが、日本ロマン派を判ろうとする意欲が強すぎて、結論では返す刀で戦後の「欧化主義者」批判をやってしまっている(340頁)。日本ロマン派の感情的な苛立ちを理解するのはいいが、彼らの情念の上に伝統と進歩の統一を志向しては、いつか来た道をまた辿る羽目に陥る。

 「『支那事変』とよばれる戦争状態が、中国に対する侵略戦争であることは、『文学界』同人をふくめて、当時の知識人の間のほぼ通念であった」(302頁)のならば、侵略行為を看過し容認した責任は明白ではないか。「支那事変」に逢着するまでが既に「征韓論にはじまる近代日本の戦争伝統に由来していた」(307頁)と言おうが、大川周明の著作に拠ってもっと遡り「佐藤信淵の『混同秘策』を祖とする日本の伝統的国策」(324頁)にまで言及しようが、ますます明らかな国際的違法行為を強調することに終わるまでで、なんら困難な問題が横たわっているわけではない。

 私にしてみると、この国の「近代」と彼の国の「近代」とはさほど懸隔はない。佐藤信淵吉田松陰も、西欧近代国家の植民地主義政策を知っていたのだ。神道的知識で潤色されて、この国独特の「国体観念」が主役を演じているかの如く誤解してしまう者は多い。この国を支配しているのは「神話」そのものではなく、「神話」を現実体と成らしめようとする一群の国粋的政治家・言論家・官僚・経済人なのだ。こうした連中をいとも簡単に公職に「復権」させたのは、竹内好が言うところの「エセ知性」連中だろうが、果たして竹内自身は真の知性をいかほど発揮したのだろう。

気ままな読書録15 『近代の超克』感想 その一

 1942年夏に物された論文と座談会を掲載したこの書物には、前年12月8日に開始された「太平洋戦争」緒戦の勝利の高揚感が色濃い。参加者皆が意気軒昂たる口吻を漏らしている中で、とりわけ溌剌たる発言をしているのが亀井勝一郎林房雄である。

 彼らには、「もしかしたら我々は欧米を越えられるのではないか」との希望が芽生えていたのではなかろうか。それは戦闘における勝利によって錯覚させられた幻影でしかないが、この国の国粋主義者はほんの一時でも「万国無比の国体の精華」を体験しかけたようだ。

 「現在我々の戦いつつある戦争は、対外的には英米勢力の覆滅であるが、内的にいへば近代文明のもたらしたかかる精神の疾病の根本的治療である」と亀井は論文で書く(15頁)。彼にとっては「明治以来、我々が実感した我々の近代といえば、これは地獄と云ってもいい」類いのものだった(202頁、座談会発言)。したがって「現在戦いつつある戦争」は「休息なき戦争」、終わりなき永久戦との認識が生まれ、果ては「戦争よりも恐ろしいのは平和である」という逆転も生じる(16頁、論文)。「明治以来の疾病」である共産主義自由主義などの平和の産物を一掃し去るまでは、戦争は終わってはない。修辞の行き過ぎとばかりは言えないかもしれない、

 明治維新政府がもたらしたものに対する嫌悪が自身に痛切に、読む側に痛烈に語られたのが、林房雄の論文「勤王の心」(83頁から)。自らの情けない過去を含みこんで、文明開化の明治維新そのものを笑い飛ばし否定し去る激越な情念の作である。

 「日本には外国の影響を断乎として受けない部分があった」(264頁、発言)し、「明治維新の志士が頭の中に持っていた原形は、日本の古代」「国民が天皇に直接し奉っていた無階級の時代」だった(243頁)と林は語る。それを自由主義、民主主義、そして共産主義が破壊し、国民に見えなくしてしまった。たとえば映画を生み出した「アメリカン・デモクラシーは衆愚の心をつかむ力を持っている」(258頁、発言)。こうして攻勢に曝されっぱなしであった日本固有のものを取り戻す絶好の機会が訪れたという認識で亀井と共通する。「大東亜戦争がどうやら文明開化に一応終止符を打った」(240頁、発言)。1940年12月の真珠湾攻撃から1年足らずの連戦連勝は、この二人にとって感慨一入だったことだろう。

 この両人をはじめ小林秀雄、そしてこの企てには参加していないが日本ロマン派の首謀たる保田与重郎などの「文学者」連には、観念の上での「この国固有のもの」を汚しつつあった欧米的な「近代」が払拭されるなら、戦争は大歓迎なのだ。戦争の敵手、政治の相手が負かされて、この国から退場する日が、この国にとって「近代の超克」の達成日であった。理論的にそうであるというより、情緒的にそう感じられていたのだろう。理論ではなく情緒優先の態度は、たとえば下村寅太郎を相手に「機械」について議論している場面でも如実に現れている。小林秀雄「魂は機械が嫌い」、河上徹太郎「相手にとって不足」、林房雄「家来以上にしてはいかん」(261頁、発言)。まるで子どもの言葉である。

 彼らロマン主義者の情緒依存の無責任性は、たとえば小林秀雄の戦後の発言でも相変わらず炸裂している。敗戦翌年の『近代文学』1946年2月号に掲載されている小林の弁を拾うと、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した」。「僕は無智だから反省などしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(337頁、竹内好による解説から)。バカの振りをしているだけで、旗色が良い時には利口ぶって雄弁に語っていたくせに。

 ロマン主義国粋文学者はある意味では判りやすい。保田のような「デマゴーグ(334頁、竹内好による)」も情緒的な非論理をあからさまにするから、見たくないものを見るような気持ち悪さが感じられる。