引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

気ままな読書録14 『道元』上下巻(岩波書店版) その二

 以上の経歴から判るように、道元は全生涯を仏教が語ることを考え、また周囲の人々に伝えることに費やした。他に混じるものがない、宗教者としてだけの人生を送ったと言える。

 道元の言行は実際の人生行路と一致して超越論的である。仏の教えをただ祖述するのではなく、仏の教えをもとに宇宙の成り立ちを考えている。その際には仏が思考したであろう態度で、条件下で自身も考えようと努めた。また人にもそうするように説いた。道元の教えは形式的にも厳格だ。

 道元には宗派を新しく開いたという意識がまったくない。自らの考えを曹洞宗はおろか、禅宗とさえも呼んでいないし、呼ばれることを拒んでいる。仏教とはただ一つ、世尊釈迦牟尼仏が教えている体系しかなく、自分はそれを正統に直伝していると確信している。「世尊よりたれ人か善巧ならん」(下巻53)。謙虚に無心であり、また強烈な自信を持っている。

 思考の対象は主にこの宇宙の在り方に向かい、よって関心は存在論にあった。結果として認識論に至ることはあっても、存在論を他と争論することは稀で、よってほとんどの論述が断定的だ。極めて特徴的なのが時間の捉え方であって、たとえば釈迦とその直系の弟子は系譜的には並んでいるが、同時に皆横一列に位置している。「明星出現時、我与大地有情、同時成道」という釈迦の教えを敷衍している(下巻210)。

 こうした思考法からは、修行者が確固たる真理に達する限りで、それ以上それ以外の思考の進歩を要しない。その時点で自足する。道元にとっては宇宙を自己に包摂し、また自己を宇宙に拡散する心境に到達することだけが問題だった。

 道元事象の正反両面を否定する。あたかも何事も残らないかの如く。悟りはそんな所には得られないと言う。では果たしてどこに。『正法眼蔵』の第1巻は「現成公按」。最初の著『瓣道話』を32歳の時に書いて、翌年にものした第1巻の巻頭すぐあとに「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。」と高らかに唱えたのだった(上巻36)。「修智慧、不戯論」(「八大人覚」の末尾二)。

 なお校注者のもう一人、寺田透の頭注も解説も私にはさっぱり理解できなかった。道元以上に難解な説明だ。下巻月報に「道元の確かな世界」を書いている玉城康四郎、寺田との私的な思い出話を書いている大岡信「寺田透と正法眼蔵」ともに、道元を理解する上ではまったく役に立たなかった。「それぞれの道元」がいるのだろう。「私の道元」が刻印されたように。

気ままな読書録13 『道元』上下巻(岩波書店・日本思想大系版) その一

 下巻末に校注者の一人、水野弥穂子(第1刷発行1972年当時、駒沢短大助教授)が「道元禅師の父、母、祖父」という章を書いてくれている。それによると父は久我通親(「こがのみちちか」と読む)、母は松殿関白基房の女(むすめ)で、生年は1200年丁度なのだそうだ。道元の生い立ちに関しては、なんと1953年(昭和28年)に大久保道舟という学者が明らかにするまでは判然としなかったという。それほどに道元は自らの過去を語らぬ、その意味で「出家」を貫いた人だった。「仏化はただ出家それ根本なり」(下巻301)。

 久我家は村上源氏の家系で、通親の父である雅通は内大臣を務めていたから、2代続けて内大臣職を襲っていた貴族である。一方基房とは言うまでもなく藤原基房。『平家物語』「殿下の乗合」の場面で平氏の辱めを被った悲劇の人物。さらにその娘は平氏を京都から駆逐した武将木曾義仲の妻になるよう政略家の基房から強いられ、義仲没落後は久我通親と再婚した女性だ。

 そうした父母のもとに道元は生まれた。水野が言うように「平安鎌倉時代の政治・文化の主流の中に生をうけた」のが道元である(下巻605)。

 父の通親は道元3歳時に、母は8歳時に亡くなる。幼い道元の世話は異母兄の久我通具が見たらしい。祖父たる基房は長生きして(85歳ないし86歳となった1231年没)、才知長けた孫の道元を養子に迎え入れ、藤原氏松殿家の跡を継がせる心算だったようだが、少年の道元はそれを察したか、13歳になると敢然として家を出て、親類筋ですでに僧になっていた良観法眼のもとに走る。そして翌年14歳で剃髪出家したのだった。

 以下巻末の年表によれば、まず比叡山戒壇院で、次に18歳になると栄西が開いた建仁寺に入って修行。24歳時(1223年)に建仁寺の先輩僧・明全らとともに宋へ渡航する。そして4年間にわたって中国の諸山諸寺をたずね歩き修行を重ねている。一山一寺に留まることなく、道元が正統と認める禅師を精力的に訪ね歩き、直接に教えを受けている。「面受」の実践である。菩提心は「感応道交するところに」発する(下巻372)。

 1227年8月に肥後の河尻港に帰り着く。もとの建仁寺に戻り、1231年(32歳時)に『瓣道話』をものし、翌年から後に『正法眼蔵』にまとめられる諸巻を書き始めている。弟子の懐奘による『正法眼蔵随聞記』もほぼ同時期に執筆が始まる。叡山との確執が起こって1243年(44歳時)に庇護者の波多野義重の請に応じて越前に向かい、翌年から志比庄に法堂の建造を始めて、2年後にそれを永平寺と名付ける。その後はただの一度(1247年、48歳時)、鎌倉を訪れて第5代執権に就いたばかりの北条時頼に面会し菩薩戒を授け、蘭渓道隆信書を交わしたりしているが、それも半年足らずの滞在にすぎない。早々に越前永平寺に帰り、『正法眼蔵』諸巻の執筆と修行の生活に復している。

 没年の1253年正月に、『十二巻正法眼蔵』の末尾に収録されている「八大人覚」を著したのを最後に、前年夏からの不調を快復させることなく、同年8月28日に入滅。享年54である。

気ままな読書録12 吉村昭『暁の旅人』

 新聞の本の広告欄で紹介してあったので買って読んだ。医師松本良順の史伝である。読後まず抱いた感想は、吉村作品にしてはいかにも淡白だという期待はずれである。

 同じ講談社文庫に吉村の『日本医家伝』というのがあって、それにも松本良順伝が載せられている。1970年代の初めに出た、医学関係の季刊誌『クレアタ』に3年間連載された短編をあつめた本だ。この『暁の旅人』は、吉村のあとがき執筆時日付が2005年初夏。30年以上の時を経て、その間に資料収集や関係者への取材などをもとに、書き直された作品ということになる。

 新資料によって史実が書き改められ、また新たに書き加えられた事項もある。しかし味わいに欠ける理由はそんなところにはなさそうだ。

 『日本医家伝』における松本良順は類まれなる行動者であり、また「奇行」の人である。軍医総監時代の2度にわたる「謹慎処分」事件を取り上げて、周囲の思惑に左右されない強烈な個性の人物と描いている。薩長新政府に反発して、恩義のある徳川幕府にあくまで忠誠を尽くしたのも、松本の頑固執拗な性格に基づくというように描かれている。

 こうしたイメージをもって『暁の旅人』を読むと、拍子抜けがしてしまう。この作品での松本は、現前の事態を淡々と受け入れ、右顧左眄することなく進む静かな覚悟の人である。逃れたが良いと諭されれば、従容と逃げ延びるのであり、病院開業に資金が必要となれば遠慮なく貸してくれと頼み込む。

 松本良順の人となりを証する最大の特徴が、薩長新政府に対する反抗心であったとすると、その明治維新政府に協力することを決意する局面は最高のクライマックスと言えよう。その場面は、『暁の旅人』ではたった5ページで収まっていて、当時兵部少輔であった山県有朋の訪問を受けたある一日で決しているのだ。松本はしばらく逡巡はするが、結局維新政府雇いの軍医に就任するのを承諾している。辞令は即日発行されたというから、山県の訪問以前に事前に打診があり内諾していた可能性がある。いずれにしろ、いかにもあっけない。

 松本良順の医師としての才能や先見性は、この作品を読んでも理解できる。しかしそれ以上の人物ではないのではないか。『日本医家伝』で書かれた「奇行」にしたところで、個性派ぞろいの明治人物伝の中では出色とまでは呼べない。

 とまれ、外交官であり外務大臣も務めた林董が松本の子であること、大磯海岸を海水浴場として推奨し宣伝したのが松本であったことなどが、新知見として得られたのは嬉しい。

気ままな読書録11 アーネスト・サトウ『神道論』

 外交官アーネスト・サトウによる『神道論』は1870年代の成果である。横浜に本拠をおいた外国人によるアジア研究ソサエティでの講演や論文を集成したものだ。この組織に関しては萩原延寿『遠い崖』にも度々取り上げられていた。イギリス公使館の職員も数人が加入して、チェンバレンやアストンが日本研究・アジア研究の足場としていたこという。サトウも英国の外交官である視点を活かして、この国の神道という「思想・儀式・政治的運動」の体系を冷静、客観的に観察し分析している。1860年代初期に来日して幕末動乱の渦中に身を投じ、若きサトウにとっても疾風怒濤の数年間を経験していたが、嵐が収まるとサトウ自身も生来の「学者肌」が目覚めて、目前にある「東洋」を精力的に観察し分析し始めた、その成果である。

 何よりもまず神道を不当に持ち上げることがない。さすがにギリシャ・ローマの古代史を精神的ルーツとするヨーロッパ知識人だけあって、「日本は歴史の浅い、文明の未熟な国」と明言している(170頁)。神道家がいくら古神道の開始期を有史のうちに位置づけようとも、文献的な裏付けを持つ紀元前数百年の時間を持つ西洋史に土台叶う筈がない。

 始まりの不透明さがこの国の歴史にとっての重要な問題であるのを認識している。神話として『古事記』『日本紀』を分析する態度は見せていても、史実として解釈しているのではない。サトウが本居宣長を高く買うのは「近代文学の日本語の創出者」としてであり(69頁)、平田篤胤を研究する必要を説くのは飽くまで「文献学的研究」に便利だから(151頁)。祝詞の重要性も「日本の古語が保存されている」からに他ならない(222頁)。

 こうしてみるとサトウにとって神道とは、この国の研究のすべて、ないし大きな部分でもないようだ。その証拠に「国学」の構成要素として、歌道、律令、文学、歴史、故実と並べて神道を挙げている(73頁)。「国学」を「この国の文化に関する総合的な研究体系」と看做しているわけだが、当時あまたの国学者たちがサトウの掲げる諸要素を得手に応じて研究している実態を反映した認識と言えよう。

 サトウに限らないのだろうが、そうした国学研究を蔑視したり時代錯誤視したりする姿勢はまったく見られない。むしろ自身もそうした日本人国学者に伍して研究活動に参画せんとするほどの意欲さえ見える。私は最近の欧米における日本学の現状を知らないが、ナショナルなものに対して肯定的に抵抗なく対処する「19世紀人」の姿勢を、サトウにも認めるのだった。

 「国学」の一構成要素たる神道は、近世にいたって漸く吉田神道として組織化が図られた新しい思想・運動体であり、まさにサトウの目の前で展開されている通り、明治維新政府が政策的に「宗教化=国教化」している真っ最中だと言っている(153頁)。こうした神道に対する冷静な評価は、現代の歴史家に引き継がれていると言えよう。

 しかし仮にサトウの分析に従って「国学」を研究するとして、果たして「国学者」らの目指す結論が見出せるだろうか。なんとなれば本居、平田に始まる国学者国学にかけた情熱は、世界に無二、万国無比の卓越した要素をこそこの国の過去に探り出そうとしたのだったから。だからたとえばサトウのように、亀甲占いの起源をアジア中央高原地域に求めて、そこからこの国の主流人種をウラルアルタイ語系に見る(184頁)ような結論を得ても仕方がないのだった。

 したがっておそらくサトウの神道論は、この国固有の「国学者」の間では不評を買うだろうし、一方でイデオロギーから独立した研究者には好評を得ただろう。不当な占取・占有が生じるのは、正当な所有権概念が一般化してから後のことであるとの定式化(214頁)、病や奇形、災難を蒙るなどの不可抗力による被害であっても「穢れ」として忌避する風習がこの国にあるとの指摘(同頁)などは、現在も追及すべき重要な問題点だ。

 サトウ『神道論』は以上の考察によって、近代的な神道分析の嚆矢と見て差し支えないだろう。