引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

森鴎外 考

 岩波版『選集21巻 日記』には「北游日乗」「独逸日記」「小倉日記」「委蛇録」の4編が収録されている。鴎外は1862年(文久2年)生まれだから、最初のが30歳そこそこの頃、次が30歳代半ば、その次が40歳過ぎ、そして最後が亡くなる1922年間近の晩年期の作品ということになる。
 解説に小堀桂一郎がことさらに詮索しているのだが、日記とて公開するのなら作品、すなわち創作であるのは当然だ。いや、公開しなくても日記は作為的であるのは、書いた当人が知っている。よってその人間が何を人に曝したかったのか、自分の中の何を白日の下に暴露したかったかという観点で読まねばならない。
 私は鴎外を東洋的文化人であるとつくづく感じた。もとより外国語にも堪能だったから、ドイツ語やフランス語、イギリス語にも読み書き、聴き話す力を用いて通暁していたのだったが、根底には漢語の素養が牢乎として根付いている。日記類の原文は漢文で書いているのだから、江戸時代の知識階層の文化的伝統を色濃く受け継いでいる。『伊沢欄軒』『渋江抽斎』などの史伝をものしたのは、ほとんど自分自身の文化的なルーツ探しの試みだったと見える。
 漢文教養がモノを言って、天皇や皇室、宮内庁関係者、政治家たちから作文を依頼されたり、校正を頼まれたりしている。まるで1870年代から80年代の井上毅のような存在だ。
 思想的には保守で体制側にある。憲法発布・国会開設に関心を示しておらず、戦争に対しても抵抗なく入って行き、大逆事件ロシア革命もまるでなかったかのようだ。長州閥を柱にして人脈が形成されている。しかし文人でもあるから、人的な交流範囲はさらに広くなる。芥川龍之介有島武郎、与謝野寛などの作家から和田英作ら画家、黒板勝美三上参次などの日本史学者らとも交流している。この辺が鴎外の人間性を広げるのに資している。
 いやむしろ、単に軍医だけに終始した人間ではないと主張しているように見える。軍医としての職業人生は片手間にこなした余技であって、本業はそれら文化的学術的な活動であると。医師としての技量や研究者としての才能は、おそらくそう卓越していなかったのではなかろうか。だから鴎外から作家としての、また広く文化人としての経歴を除いていたら、頭は良くても歴史に名を残すことのない(鴎外と同期で東京大学医学部を卒業した首席の三浦某のように)人物として終わっていただろう。本人は不本意な人生だったかもしれないが、文人鴎外のキャラクターが軍医官森林太郎の昇進を助けたのだし、また反対に軍人医師たる者が作家を兼ねたからからこそ名声を博したと言える。
 私たちはそうしたマルチタレントに幻惑されてはならない。あくまで作品はそのものとして鑑賞されなければならない。