引井総男の何か

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大塩中斎と蘭学者たち

 杉浦明平は『維新前夜の文学』(岩波新書、1967年)を著わして、その第4章に「儒学における保守と急進」と題し、佐藤一斎と並べて大塩中斎を立てている。両人を同等に並べたのは杉浦の炯眼だ。

 大塩平八郎中斎の名を天下に轟かせたのは、言うまでもなく1837年大坂に起こされた反乱による。それは従来の民衆反乱と様相を異にして、そのリーダーは幕府官僚機構の末端とはいえ大坂町奉行与力の家柄にして陽明学を講ずる学者であった。1837年2月19日に挙兵するも、大坂所司代土井利位配下、かの鷹見泉石率いるところの幕軍に敗退し逃亡を図るが、敢えなく発見される。中斎はその場で息子格之助を刺殺し、自身も家屋に火を放って自殺する。享年45。何が彼をそうさせたか。
 時代は天保期。1833年天保4年)の凶作に端を発する大飢饉が全国を覆い、米価高騰に因って餓死者が多発していた。米価は1836年には飢饉前の3倍に達していたという。江戸の町でも「往還に行倒、病死又は相煩罷在候者多く」、捨子も横行、平時の5,6倍の多きに達していたという報告が為されている。「致方無く無宿に相成飢渇に及び候」者が続出していた。この報告を書き、「御救小屋」(一時救護所)設置とその運営法を提案しているのは、江戸南町奉行所与力の原善左衛門と仁杉五郎左衛門の二人である。伺書は南町奉行筒井政憲から幕府老中大久保忠真に届けられ、勘定所(現在で言えば財務省)役人たちの決裁も得られている。時に1836年10月22日(以上の報告書は『日本近代思想大系』「差別の諸相」345頁所載「町方飢渇之者御救之儀に付申上候書付」)。中斎の決起の僅かに4ヶ月前である。
 中斎が決起に到る経緯は詳らかにしないが、両者の外形的な類似性は高い。しかし現実の結果の相違は、江戸町与力提案が体制内改革であるのに対して大塩の決起が反体制変革である所から来ているのは明白だ。中斎は反乱軍の旗幟に「救民」と大書すると同時に、「天照皇太神宮、湯武両聖王、東照大権現」とも記していた。中華や神国の神的権威は吾に味方していると標榜したかったのであろう。杉浦が語る通り、更に中斎の動機中には陽明学に基づく太虚論があり、行動至上のニヒリズムが伏在していたのだろうが、いずれにしろそれも彼の反体制意識を強めこそすれ、弱めるものではなかった。
 一方で佐藤一斎に連なる人物たちは多士済々だ。一斎は幕府儒官にして林家学塾の塾頭。現代に引き写せば東京大学学長兼文部科学省高官といったところか。その学的権威には当時並ぶ者がなかったと言えよう。その守備範囲も広く、官許の学たる朱子学のみならず陽明学の陸象山や王陽明にも通暁していた。中斎が準じた「致知格物、知行一致」において、事に拠れば二人は同学の士となり得たかもしれなかった。ともあれそのような折中的な学問性格が功を奏して、一斎の人脈は広大となった。『維新前夜の文学』の該当章扉に載せられている佐藤一斎の肖像画を描いた渡辺華山(なんと見事な写実であることか!)も門人の一人。その他安積艮斎、川路聖謨横井小楠佐久間象山、大橋訥庵、中村敬宇などの学者、政治家、更には将軍徳川家斉や水戸烈公などの大大名も「教え子」なのだ。
 就中華山、象山などの蘭学者、川路、横井などの「開明派」政治家に注目させられる。華山は、先述の「大塩の乱」鎮圧の功労者たる古河藩家老鷹見泉石の肖像画(これも傑作だ)も描いていて、泉石の主君土井利位は当時有名な「蘭癖」大名だった。以上の人間関係を概観すると、官許学問の泰斗から蘭学者ないし蘭学者シンパが輩出され、その一部が官学の一派から生まれ出たがしかし反体制的な民衆反乱を弾圧したという図になる。
 ここで1837年(天保8年)10月29日付け、華山の江川太郎左衛門英竜宛書簡を上げる。「房州風聞、間村之土人漁猟に出候処、例のアメリカ船(1837年6月27日夜江戸湾に侵入し撃退されたモリソン号のことか)之内に、大塩罷在候旨、風聞致候」(『日本思想大系』「渡辺華山など」所載、110頁)。幕府代官の江川に華山を紹介したのは川路聖謨であった。こうした体制側の当代切っての「開明派」政治家たちが、当年の2月に大坂で自殺している大塩中斎がモリソン号に乗船している筈もないものを、真しやかに噂し合っている構図には滑稽なものがある。
 ここまで見てきて私が思い到るのは幕末蘭学の社会的位置である。幕府公認イデオロギーであった儒学と新参の蘭学とは、林述斎やその子の目付鳥居耀蔵らが疑心暗鬼するほど異質な存在ではなかった。両者を相容れざる関係と看做して、ライバル関係にあった江川英竜に連なる蘭学者流を鳥居がフレームアップしたのが“蛮社の獄”だが、その犠牲者となった華山や長英や古関三英らはいずれも体制派内思考しかしない安全な人物だった。彼らがオランダ語を介して西洋の学術を学んだのは、民衆の解放、封建制度の打破などのためでは毛頭無く、断然幕府を含む「朝廷」=国家の為であった。この頃から盛んに「御国体」という言葉が登場する。それは後代の「国体思想」とはなお異なるが、やがてそこへと到る萌芽ではある。華山にも長英にも象山にも揃いも揃って「皇国史観」の走りのような言説が認められる。当時の蘭学者は大抵が幼時から儒学の教養を身につけさせられ、そのパン生地の上に「敵を知り汝を知らば、百戦危うからず」という孫子の兵法に則って蘭学を育んだに過ぎない。蘭学はその意味では1840年代に体制内イデオロギーに転じ始めたとも言えよう。神国思想がどこから入り込んで常識化していたのかは今後の追究課題だ。
 大塩中斎は蘭学にはまったく接近していないように見える。華山や長英は佐藤一斎に似て「知」の人であり、自らを国家と一体化する体制内知識人であった。しかし中斎は違う。外圧に触発された危機意識に喚起されるような他律的な性質ではない。国家内の矛盾を自己内在化して、自身を能動的に解放する行動を民衆解放運動(国家内矛盾の解消)と連動させた真の学者だ。大塩の挫折は、佐藤一斎に連なった人々の時代が開けて行くことを意図せずして告げたのだった。