引井総男の何か

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私説 井上毅伝5 大転身

 井上毅の政治的文書の中で私が最も重視するものの一つが、「佐賀の乱」直後の1874年4月に提出された「官吏改革意見」だ。大学南校職員時代に書かれた大学改革案が一体誰に対して差し出されたものか定かではないのと打って変わって、1874年4月の建議書は右大臣岩倉具視宛てと明記してある。
 現代に置き換えると、文部科学省大学局の新入職員から法務省に転じて僅か3年後に内閣総理大臣に意見を具申するようなもの。この間に「裏の世界」で一新入職員と総理大臣との間に何かあったと想定する方が、何もなかったと考えるよりも現実的だろう。
 井上は岩倉や大久保に慫慂されて初めて、分を越えた提案を書くことができた。なんとなればその文中には、支配的政治家の放蕩三昧を難じる「無礼な」言いざまも含まれているのだから。明治時代の中期までは、政治家たちが公然と遊興に惚けった時代だった。過ぎ去った明治を回顧する著作が相次いで出版された大正時代や昭和時代初期の文書で見ると、伊藤博文山県有朋らの豪遊振りは物凄い。岩倉ら主流派政治家にしてみれば身内の恥となる醜聞を曝け出す井上毅の提案など、本来なら受け取れる筈がない。ところがこの文書はなんと政府要員の間での回覧扱い、つまり必読文書とされている。
 パリで政府首脳と邂逅してから帰国後、「佐賀の乱」に際会して「監察史」の役目を終えた井上に、次に廻り来たチャンスは、西郷従道らによる台湾侵略戦の後始末だった。ここでまたしても尊敬する大久保利通に認められる絶好の機会が訪れた。井上は大久保の随行員として8月に清国へ出立、9月から11月にかけて交渉に臨んでいる。なにしろ今度の相手は西洋人ではなくて中国人。井上毅が青少年時代に営々と培って来た漢学の蘊蓄がモノを言う時が来たのだ。そして期待される役割を見事に果たし、井上は天皇から論功行賞を受ける。年末には司法省権中法官に昇進している。
 こうして井上毅はいよいよこの国の政治のメインストリームに棹差して進み始めた。