引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

私説 井上毅伝4 政治的飛躍

 一年に満たなかったが出会いに満ちたフランス留学から帰国したのが明治6年(1873年)の9月。強烈な印象を残して先に帰国した大久保利通、そんな大久保が心から師事していた岩倉具視と相前後して祖国に戻ったのだった。
 残留組の西郷隆盛板垣退助江藤新平らと使節組との間で、対朝鮮政策での齟齬が生じているのは知っていた。井上毅は帰国を前にして既に自身の政治的立ち位置を決めていた。それは上司たる江藤を裏切る行為だと判っていたが、政治のなんたるかを岩倉や大久保から諭された今となっては致し方なかった。
 井上がフランス留学から学んだのは、西欧文明の圧倒的強さだった。それまで言い触らされた「西洋技術、東洋精神」的な尺度をもってしては計り得ないほどの高さと深さを覚えずにはおれなかった。「こんな連中と伍して世界に乗り出す日本国には、何より内国政治、富国策が先決事項だ」。岩倉使節団には岩倉・大久保派と木戸孝允派との二大潮流が存したが、内治優先においては一致していた。維新初期まで吉田松陰の政治的影響を引きずっていた木戸も、自身の冒険主義的志向を改めて、まずは富国強兵路線に就くことで落ち着いていた。井上毅はそんな日本国政治主流の政見の影響を深刻に蒙ったと言える。
 元来井上毅には保守的素質が強く、かつ時の主流に棹さすという正統主義的な志向性も強い。そんな自らの傾向性を正当化する論理を岩倉や大久保から学んだ。今や井上毅は生粋の正統主義者、保守本流の官僚政治家に生まれ変わったのだった。
 そんな変身が証明された歴史的事件が1874年の「佐賀の乱」だった。その「乱」に際して熊本に出張させられていた井上毅は、先行した「神風連の乱」の本拠地であり井上の故郷たる熊本において、「佐賀の乱」と連動した不平士族の暴動が起きないように見張る役目を荷なっていたと考えられる。