引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

気ままな読書録10 ジェラルド・グローマー『瞽女うた』 

 この本はこの国に1970年代までは活動していた、盲目放浪の女性芸人である瞽女(ごぜ)の歴史、作品を論じている。グローマーはジョーンズ・ホプキンス大学と東京芸術大学で音楽博士号を取っている専門家だから、瞽女うたの旋律を採譜して分析するのは当然として、歌詞を記録掲載し、さらに歴史的な変遷まで詳細に調べて記録している。瞽女うたに対する嗜好を隠さず率直に吐露すると同時に、唄が受け入れられ、そして消えて行く社会的背景も緻密に叙述している。瞽女唄に関する決定版とも言える作品だろう。

 私はかつて小松成美『かな』を読んだ時と同様の濃密な感興に浸っている。グローマーが1985年に来日してから、古本屋で買った500円の広辞苑をもとに日本語と格闘し始めて30数年にしてものした傑作だ。

 グローマーは近代的な音楽が「進歩」したからといって、その芸術的な可能性までが発展するわけではないと最後に書いている。むしろ近代以前の民衆ならば感取していただろう「長い物語」、「柔軟なリズム感」、「細かい装飾音の多い旋律」を失ってしまったと言う。そう言われれば、私が好む音楽も平板だ。定まりのない長大な音楽を聞くことも奏でることもない。

 そもそも生の演奏を聞くこと自体がなくなった。いわゆるコンサートと言われる催しは、かならず電気的に増幅された音を聴かせる。私もエレキベースを弾いた後で、生ギターを爪弾くととても安心する。ギターのボディーを通じて我が身に伝わってくる和音の振動が気持ちよい。

 また瞽女が活躍した頃と決定的に異なるのは、ある時にある場所で聴けなくても、電気的に記録されたものを別の時に別の場所で聴くのが容易だ。音楽の一回性や迫真性はすっかり消滅してしまった。私たちの「感動」は、いかほどのものなのか。

 なんだか私は「違った道」に迷い込んで、そうと気付かずにトボトボ歩き続けているような気がするのだ。