引井総男の何か

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刑罰の懲戒主義と感化主義

禁門の変」で24年の生涯を終える久坂玄瑞は、その5年前の1859年10月、「安政の大獄」吹き荒れ知友の橋本左内を失って、彼の思い出を自著『俟采択録』に留めている。左内は捕われて獄にあった時、獄中のしきたりが余りに酷いのを憤り、囚人には職業教育を施して釈放後の全うな生活を保障すべきと語っていたのだそうだ。玄瑞は「大獄」で師たる吉田松陰をも失うのだが、左内の感慨は松蔭の著わした『福堂策』(1855年作)とも通じると書いている。更に玄瑞は、1854年に刊行されていたアメリカ合州国地誌『亜墨利加総記』も読んで、彼の国では囚人の教化善導が制度的に整っている事実を挙げて、「嗚呼、夷狄の心を刑獄に用ふる、猶且つ此の如し。堂々たる君子国(日本国のこと)、安んぞ勧善の道を忽諸にするを得んや」と、この国の現状を嘆じている(以上、『日本近代思想大系』、「差別の諸相」、431〜2頁)。
 江戸時代の刑罰は基本的に「身こらし刑」、つまり身体刑・追放刑であった。その転換点を画したのが松平定信寛政の改革」期に設けられた石川島人足寄場。開設当初は囚人ではなく無宿者を収容して就労を促進するのが目的だったが、次第に囚人も収監するように変貌する。そこで「近代的監獄への出発だ」と評されることとなる(同上書、505頁)。
 画然と意識はされていなかったのかもしれないが、明治維新よりも前に既に、刑罰の二面性、すなわち懲戒主義と感化主義とが現実制度上でも並立していたということになる。更に言えば、先進的意識を持つ志士たちの間で、刑罰は懲戒主義ではなく感化(教育)主義たるべきことが唱えられていたと看取できる。
 1872年(明治5年)、最初の「監獄則」を書いた小原重哉自身が岡山藩士だった幕末に小伝馬町牢獄に入牢していた経験の持ち主で、「緒言」には「獄ハ、人ヲ仁愛スル所以二シテ人ヲ残虐スル者二非ズ」と宣言している(同上書、397頁)。時代は下って1884年(明治17年)、全国の典獄(刑務所長)を招集して演説した、かつての松蔭門下山県有朋内務卿は、その訓示の冒頭、「監獄ノ要タル、在監者ヲ懲ヒツ感化シテ之ヲ愛護スルノ目的ヲ達スル二在リ」と述べている(同上書、421頁)。
 刑罰とはすなわち感化教育なりとする考えは、こうして見ると19世紀初期に芽生えて80年代半ばまでは主流を占めたと考えられる。これに対する反動を同一人物(山県)が開始するというのもまた興味深いのだが(1885年8月秘密訓示<同上書、422頁>。そしてその流れを決定づけた1889年の改定監獄則<同上書、430頁>)。ともあれ刑罰感化論をこの国の近代化を推進した政治家たちが採用していたことに注目したい。
 中江兆民が『三酔人経綸問答』(岩波文庫版)の中で「洋学紳士」に託して「死刑を廃して法律的残虐の絞具を除」くとまで語り、人類の報復行為についての道理的議論で「彼れ悪事を為すが故に我も亦悪事を為すと日ふが如き」「何ぞ其れ鄙なるや」と痛論したのも1887年(明治20年)であった。
 刑罰を恰も江戸時代並に「身こらし刑」としか考えなくなっている現代に、19世紀の人たちの思考と実験は過去の遺物としか見えないのだろうか。事は刑罰に限らない。貧窮者への救助策論争において、消極論や否定論が依拠する理由は、貧窮に陥るのは個人的な無能、落ち度、怠惰であって、従って救援策を執れば執るほど貧窮者は増加するということだった。監獄の待遇を改善すれば却って犯罪者は増加すると考えるのと同種の議論である。社会あるいは国家は個人的問題を救済、感化、教育するには及ばず、ただ懲罰すれば事足りるとする考え方が、今日再び台頭している。このような「野性的」思考が学術用語を纏って横行している。進歩に対する反動でなくて何と呼べようか。