引井総男の何か

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気ままな読書録11 アーネスト・サトウ『神道論』

 外交官アーネスト・サトウによる『神道論』は1870年代の成果である。横浜に本拠をおいた外国人によるアジア研究ソサエティでの講演や論文を集成したものだ。この組織に関しては萩原延寿『遠い崖』にも度々取り上げられていた。イギリス公使館の職員も数人が加入して、チェンバレンやアストンが日本研究・アジア研究の足場としていたこという。サトウも英国の外交官である視点を活かして、この国の神道という「思想・儀式・政治的運動」の体系を冷静、客観的に観察し分析している。1860年代初期に来日して幕末動乱の渦中に身を投じ、若きサトウにとっても疾風怒濤の数年間を経験していたが、嵐が収まるとサトウ自身も生来の「学者肌」が目覚めて、目前にある「東洋」を精力的に観察し分析し始めた、その成果である。

 何よりもまず神道を不当に持ち上げることがない。さすがにギリシャ・ローマの古代史を精神的ルーツとするヨーロッパ知識人だけあって、「日本は歴史の浅い、文明の未熟な国」と明言している(170頁)。神道家がいくら古神道の開始期を有史のうちに位置づけようとも、文献的な裏付けを持つ紀元前数百年の時間を持つ西洋史に土台叶う筈がない。

 始まりの不透明さがこの国の歴史にとっての重要な問題であるのを認識している。神話として『古事記』『日本紀』を分析する態度は見せていても、史実として解釈しているのではない。サトウが本居宣長を高く買うのは「近代文学の日本語の創出者」としてであり(69頁)、平田篤胤を研究する必要を説くのは飽くまで「文献学的研究」に便利だから(151頁)。祝詞の重要性も「日本の古語が保存されている」からに他ならない(222頁)。

 こうしてみるとサトウにとって神道とは、この国の研究のすべて、ないし大きな部分でもないようだ。その証拠に「国学」の構成要素として、歌道、律令、文学、歴史、故実と並べて神道を挙げている(73頁)。「国学」を「この国の文化に関する総合的な研究体系」と看做しているわけだが、当時あまたの国学者たちがサトウの掲げる諸要素を得手に応じて研究している実態を反映した認識と言えよう。

 サトウに限らないのだろうが、そうした国学研究を蔑視したり時代錯誤視したりする姿勢はまったく見られない。むしろ自身もそうした日本人国学者に伍して研究活動に参画せんとするほどの意欲さえ見える。私は最近の欧米における日本学の現状を知らないが、ナショナルなものに対して肯定的に抵抗なく対処する「19世紀人」の姿勢を、サトウにも認めるのだった。

 「国学」の一構成要素たる神道は、近世にいたって漸く吉田神道として組織化が図られた新しい思想・運動体であり、まさにサトウの目の前で展開されている通り、明治維新政府が政策的に「宗教化=国教化」している真っ最中だと言っている(153頁)。こうした神道に対する冷静な評価は、現代の歴史家に引き継がれていると言えよう。

 しかし仮にサトウの分析に従って「国学」を研究するとして、果たして「国学者」らの目指す結論が見出せるだろうか。なんとなれば本居、平田に始まる国学者国学にかけた情熱は、世界に無二、万国無比の卓越した要素をこそこの国の過去に探り出そうとしたのだったから。だからたとえばサトウのように、亀甲占いの起源をアジア中央高原地域に求めて、そこからこの国の主流人種をウラルアルタイ語系に見る(184頁)ような結論を得ても仕方がないのだった。

 したがっておそらくサトウの神道論は、この国固有の「国学者」の間では不評を買うだろうし、一方でイデオロギーから独立した研究者には好評を得ただろう。不当な占取・占有が生じるのは、正当な所有権概念が一般化してから後のことであるとの定式化(214頁)、病や奇形、災難を蒙るなどの不可抗力による被害であっても「穢れ」として忌避する風習がこの国にあるとの指摘(同頁)などは、現在も追及すべき重要な問題点だ。

 サトウ『神道論』は以上の考察によって、近代的な神道分析の嚆矢と見て差し支えないだろう。