引井総男の何か

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私説 井上毅伝10 「明治14年の政変」 

 この国の有り様を決定づけた事件の一つとして、1881年の「政変」は大きな意味を持っている。この「政変」の真相に関しては今なお大久保利謙氏(大久保利通の孫)の著作の域を越えるものは現れていないものと思われる。大久保が論証しているのは、要するに黒幕が井上毅だったということだ。
 ただし大久保の検証の限界は、岩倉と井上の関係をこの時期に初めて濃密になったかのように書いているところ。井上の蔵書や著述を集めた梧陰文庫の公刊が進んで、両者の関係は遅くとも1875年に、早ければパリ時代の1873年に遡ることができると言えよう。
 この「政変」には、まず第一に大隈重信による憲法草案「抜き打ち提出」問題、第二に黒田清隆による「北海道官有物払い下げ問題」、第三に板垣退助らの所謂「自由民権運動」台頭問題が絡んでいるというのが常識である。こうした大きな政治的争点を、井上毅は1880年北京にあって井上馨らから逐一知らされていたと思われる。「琉球処分」問題の外交交渉に当たりながら、大陸の広大な空を眺めて思いを廻らしていたことだろう。
 1881年2月に満を持して帰国した井上毅がまず着手したのが、福沢諭吉の政治的進出を阻止する手筈。そうしておいて、岩倉と連絡を取りながら伊藤のリーダーシップ確立を井上馨黒田清輝山県有朋薩長閥と連携しながら達成するという計画だった。こうした人脈的な画策は舞台裏のシナリオであって、表向きは大隈や板垣に対抗した「欽定憲法」路線の確定、そして憲法制定公約という「飴」と見返りの黒田清隆処分の棚上げという形で進行した。
 政治の世界は理路整然たる必要性からだけでなく、多くの場合に時の政治的党派争いによって決定づけられる。井上毅は政治の「極意」を既に学び知っていた。