引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

気ままな読書録13 『道元』上下巻(岩波書店・日本思想大系版) その一

 下巻末に校注者の一人、水野弥穂子(第1刷発行1972年当時、駒沢短大助教授)が「道元禅師の父、母、祖父」という章を書いてくれている。それによると父は久我通親(「こがのみちちか」と読む)、母は松殿関白基房の女(むすめ)で、生年は1200年丁度なのだそうだ。道元の生い立ちに関しては、なんと1953年(昭和28年)に大久保道舟という学者が明らかにするまでは判然としなかったという。それほどに道元は自らの過去を語らぬ、その意味で「出家」を貫いた人だった。「仏化はただ出家それ根本なり」(下巻301)。

 久我家は村上源氏の家系で、通親の父である雅通は内大臣を務めていたから、2代続けて内大臣職を襲っていた貴族である。一方基房とは言うまでもなく藤原基房。『平家物語』「殿下の乗合」の場面で平氏の辱めを被った悲劇の人物。さらにその娘は平氏を京都から駆逐した武将木曾義仲の妻になるよう政略家の基房から強いられ、義仲没落後は久我通親と再婚した女性だ。

 そうした父母のもとに道元は生まれた。水野が言うように「平安鎌倉時代の政治・文化の主流の中に生をうけた」のが道元である(下巻605)。

 父の通親は道元3歳時に、母は8歳時に亡くなる。幼い道元の世話は異母兄の久我通具が見たらしい。祖父たる基房は長生きして(85歳ないし86歳となった1231年没)、才知長けた孫の道元を養子に迎え入れ、藤原氏松殿家の跡を継がせる心算だったようだが、少年の道元はそれを察したか、13歳になると敢然として家を出て、親類筋ですでに僧になっていた良観法眼のもとに走る。そして翌年14歳で剃髪出家したのだった。

 以下巻末の年表によれば、まず比叡山戒壇院で、次に18歳になると栄西が開いた建仁寺に入って修行。24歳時(1223年)に建仁寺の先輩僧・明全らとともに宋へ渡航する。そして4年間にわたって中国の諸山諸寺をたずね歩き修行を重ねている。一山一寺に留まることなく、道元が正統と認める禅師を精力的に訪ね歩き、直接に教えを受けている。「面受」の実践である。菩提心は「感応道交するところに」発する(下巻372)。

 1227年8月に肥後の河尻港に帰り着く。もとの建仁寺に戻り、1231年(32歳時)に『瓣道話』をものし、翌年から後に『正法眼蔵』にまとめられる諸巻を書き始めている。弟子の懐奘による『正法眼蔵随聞記』もほぼ同時期に執筆が始まる。叡山との確執が起こって1243年(44歳時)に庇護者の波多野義重の請に応じて越前に向かい、翌年から志比庄に法堂の建造を始めて、2年後にそれを永平寺と名付ける。その後はただの一度(1247年、48歳時)、鎌倉を訪れて第5代執権に就いたばかりの北条時頼に面会し菩薩戒を授け、蘭渓道隆信書を交わしたりしているが、それも半年足らずの滞在にすぎない。早々に越前永平寺に帰り、『正法眼蔵』諸巻の執筆と修行の生活に復している。

 没年の1253年正月に、『十二巻正法眼蔵』の末尾に収録されている「八大人覚」を著したのを最後に、前年夏からの不調を快復させることなく、同年8月28日に入滅。享年54である。