引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

抹殺博士 重野安繹伝3

知の優位
 重野は薩摩閥として明治時代の政界内で一定の勢力を保ち得たとしても、だからといってそれを傘に威勢を揮ったわけではない。1870年代の重野の経歴は地味なものだ。
 明治10年(1877年)の「西南の役」に際会して、西郷を知悉している重野が旧知の大久保に相見えて感想を取材している。大久保の「致し方ない」とのコメントを重野が書き記しているのは、三人の社会的歴史的役割を凝縮しているようで大変興味深い。
 この時期に重野は修史局に身を置いて日本史の再編集に従事している。70年代の後半には興亜思想にも接近している。初期の興亜思潮は必ずしも侵略的ではない。アジアに傀儡政権を立てて日本国の国威拡張に資するというのではなく、アンチ西洋意識に立脚して協力して対峙しようとする矜持に旺盛であった。
 しかしまた薩摩閥ではない三島通庸に讃辞を贈るなど、理解に苦しむ態度も見せている。
 重野安繹という人物はやはり「知」の人であって、政治的に「有能」とは言えないようだ。だからこそ経歴を辿ると没落と浮上を繰り返している。一貫して学者の道を進んだのであれば坦々たる進路が用意されていたのかもしれないが、政治に近接するとスパークを起こす。
 そもそも漢学に才を発揮して名を為した人が、幕末維新期に西洋の「万国公法」中国版を翻訳し、後に「国史」に関心を転換している。タダモノではない。しかし知に長けた才能が俗的な世間において往々にして「無能」であったように、重野安繹もまた知識人の限界を示すこととなる。