引井総男の何か

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抹殺博士 重野安繹伝5 

実証主義
 歴史学における実証主義とは、伝聞や言い伝えではなく、飽くまで文献史料に基づいて、それも信憑性の高い史料に依拠して歴史を著わす態度を云う。重野安繹は政府の史料編纂所に所属して、次第にこの方法論に到達したのではなかったか。
 何が彼をしてそうさせたのか。明治維新政府が、天皇家の威信と華族に列せられる予定の大名家の権威を論証するために始めた文献史料収集の成果を虚心坦懐に読み進んだ挙げ句に、重野の実証主義が誕生したと言わなければならない。重野は、想到した観念を無邪気に表明しただけという趣きがある。
 「抹殺博士」とは、そんな重野の果断な姿勢を揶揄した呼び名だ。重野にとって『太平記』や『日本外史』は、学ぶに足りぬ歴史だった。児島高徳の実在も否定し、楠木正成の「桜井の別れ」の逸話も有り得べからざるものと断じた。
 こうした重野の研究姿勢は、かつての薩摩藩の同僚たちからも胡散臭がられた。生麦事件の後の薩英戦争処理会談で伴にイギリス人と交渉に当たった岩下方平は国粋主義雑誌『国光』に論稿を寄せて、久米邦武に連なる歴史実証主義の一派を国賊呼ばわりしている。史料を粘り強く跡づける歴史学は、往々にして反体制的な思潮と見られなければならなかった。
 実証主義は言うまでなくコントの領導するところだが、19世紀後半期にコントの実証主義は必ずしも反体制的な役割を演じたわけではない。むしろ社会主義思想の思弁性を批判する拠り所として、「史実への埋没」を促した面が強い。しかしこの国では一時反体制の色彩を帯びた。
 史上に「久米事件」として知られる事態は、帝国大学国史科の重野や久米の辞職という形で収束された。当時就任したばかりの井上毅の文書でも、重野の追想でも、別段大した事件とは思われていないようだ。「一応責任をとって辞めておく」といった程度の感覚である。現に重野は数年後に帝国大学教授に舞い戻っているのだし、久米も早稲田大学教授として研究生活を続けている。
 かくして実証主義の二面性を語って余りあると言わなければならない。