引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

忠臣橋本左内の死

橋本左内横井小楠とは1850年代において、福井藩という場と松平春嶽と人物を介して重なっている。直接に会い見えたことはなかったようだが、互いに存在を意識してはいただろう(『日本思想大系』55巻に収められている書簡の限りでは、左内のものに小楠に言及した箇所がある。以下引用はすべて同書より)。松平春嶽は置かれた地位ほどは大した人物ではないが、鈴木主税、中根雪江という側近もさることながら、左内、小楠という錚々たるブレーンを抱えていた。このうち最も若年の左内こそが、忠君思想堅固な行動者だった。20歳を越えたばかりの年齢で藩校明道館の主席教官を任され、藩政にも参与させられるという大抜擢に遇されていたのだから、春嶽の期待がいかに大きかったかが察せられる。左内も藩主のそうした思いに応え報いようと必死の忠勤に励む。結論から言えば、春嶽との強い封建主従関係が左内の処刑に繋がったのだ。

左内は逮捕されてから1859年10月に処刑されるまで1年以上の間、10度の取調べを受けている。謹慎場所は越前藩の江戸邸内ではあったが、最初には藩邸内に幕吏が出張して来ていたのが、次に奉行所に呼び出されての審問に変わり、最後は評定所に出頭しているから、幕府司法の扱いが漸次上がってきている。その事は本人も意識していただろう。であるのに拘らず、処刑前1ヶ月の時期に母親宛に書かれた手紙では、水戸藩士との関係は全くないから嫌疑は晴れるだろうと語っている。

「わたくしことは、かみのおぼしめしのほかのことにわ、すこしもかかりあい御ざなく、そのところはこうへんにても、ただいまにてはよく御わかりにあいなり候御ことゆへ、けっしてみぎらのこと(水戸藩の活動)にくいあいは、けほども御ざなく候。」(579)

しかし評定所での尋問では水戸藩士との関係など一言も訊かれておらず、主として尋ねられているのは京都での工作に関してだ。

「海防之義」につき「右取調旁」「且又右に付ての御根本御手当(将軍継嗣)に相成候事肝要に付」「指当り一橋刑部卿殿賢明年長之御方故、此に定り候様、京師へ罷越候上、夫々可申立旨被申付候由、左様に候哉」と尋ねられて、「事柄は先左様に御座候。併京師にても右等の情状能御飲込被為在候様に致度と申迄にて、無理も否も刑部卿様御立被下候様願度と申すにては無御座候。」と答えている(582-3)。取調官は具体的に人名を挙げて、そうした人物と会合した目的を「御根本御手当」と関連付けようと努めているが、左内は終始京都出張の目的を海防策の為に「大船製造等」打ち合わせのためとして、「儲君の儀」に関しては情報収集にしか当たっていないとする返答で通す。これが1859年7月3日の取調べ記録だ。

この辺の齟齬をどう解したらよいのだろうか。母親にはそれ以前に自身の「罪状」について、一橋派の牙城と目されていた水戸尊攘派との共謀を疑われていると打ち明けていたのかもしれない。他事を語らず、それを押し通そうとしただけか。それとも左内本人も自分が本当のところ如何なる罪で譴責されているのか見抜けなかったのだろうか。

私はその点不勉強で判じかねるが、尋問調書における左内の返答には明らかに虚偽が混じっている。解説者(山口宗之氏)は、左内の取調べでの返答を「ほとんど事実のままに申し立て」たとしている(704)が、私には主君に累が及ばぬように必死で事実を糊塗している姿が目に浮かぶのだが。そして仮に一橋慶喜擁立を図っていたとしても、その趣意は飽くまで国家のためだったと弁解する。しかし「公辺之御為国家之御為」という「趣意柄」を理解して欲しいと述べる左内に、取調官は「其趣意に於ては何も悪い事ではない。」と無造作に応じているのである(588)。この辺の応答には、左内にある熱が取調官には伝わっていないのが読み取れるのだ。

しかしあるいは、左内の方が事態の行方を察知して、最早有罪を覚悟して自らの行為の名誉だけは遺したいと望んでいたのではないかとも思える。松平春嶽は既に左内を見放していた。「儲君の議」に関わるように命じられて京都工作に従事したことそのものを罪と看做されていたのだから、それも命じた主君ではなく命じられても抗命せずに忠実に守った従臣の諫言しなかった罪を問うているのだから、左内には逃げ場はなかった。(取調官「其許は幾度でも諫めそうなものじゃ。諫めたか、いかが。」左内「諫めるとも諫めぬとも、臣たるものの口より可申義にては、有之間布奉存候。」〈589〉)唯一放免の道は、春嶽が「罪」を自らのものとして引き受けて臣下の忠誠を無罪と主張するしかなかっただろう。この国の封建君主には、そんな誇りやかなノブレス・オブリージュは望むべくもない。春嶽に限らず、長州毛利家も吉田松陰を犠牲に供したし、幕末諸藩での政争において主君が身を以って責任を背負った例を私は知らない。儒学を基礎にしたこの国の封建道徳は、臣下に身を捨てる忠を要求しても、主君が責を全うする義は問わないのだ。