引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

私説 井上毅伝1 助走期

 江戸時代も終盤に差し掛かる1824年、熊本城下の北東に当たる坪井に井上毅は生まれた。生まれた時に付けられた名は飯田多久馬。22歳の時に養子となって井上家に入る前は生家の飯田姓であり、10代の後半から自ら毅と名乗るようになるまでは多久馬で通した。幼少年期の井上毅アイデンティティーは飯田多久馬という名前に集約されている。
 飯田家は熊本藩家老長岡家の配下にあった。長岡家は熊本藩主細川家にとっては直参。したがって飯田家は熊本藩の武士階級において所謂陪臣に当たる。武士身分としては低い。江戸時代も下るにつれて身分制の綻びは甚だしくなるが、しかし根幹は揺るがない。下級武士は下級のままに生涯を送るのが常識だった。
 牢固とした身分制の桎梏を脱する手段はあったか。それは武士であるか否かを問わず、学問の道で名を為すこと。あるいは売官して才幹を発揮すること。太平の世が続き、武士は国家の暴力手段としての社会的役割を喪失していた。しかし支配階級としての位置は保っていたのだから、刀ではなく頭脳を使って統治する役割を担わなければならなかった。あたかも時代は植民地帝国主義の夜明け。安閑として閉ざされた国内世界に留まるのを許さなくもなっていた。とりわけ政治的・経済的な才能を時代・社会が要請していた。幕府の昌平校のみならず各藩の藩校設立が相次ぐ所以である。
 飯田家は武士身分であってみれば、幕臣家となった勝や榎本のように買官によって武士の株を獲得する必要はない。してみると残るは学問の道しかない。井上毅の立身出世には、下級身分の飯田家に三男として生を享けたというハンディが寄与しているように思われてならない。
 農民の次三男のみならず、武家の嫡男でない者は養子となって他家の跡継ぎとなるか、兄の家臣となるかの道しかなかった。かの井伊直弼からして彦根藩主の14番目の子どもとして、中年になるまで世に隠れるように暮らしていた。ましてや下級武士の三男坊に世に浮かび上がる縁などなかったのだ。
 しかし江戸幕末はそうした下級武士の立身に格好の舞台を提供した。学問して才幹を認めてもらうか、「尊王攘夷」の博打に賭けるか。飯田多久馬は前者に賭けたのだった。
 そんな意識をいつから抱き始めたかは判らない。しかし子どもは純粋な競争が好きだ。9歳の時に通い始めた長岡家の塾で勉強した多久馬は、やがて学業優秀につき表彰されて、熊本藩だけでなく広く名声を博していた木下塾に転校する。そこで再び成績優秀を表されて藩校時習館に入学を許される。学習の結果がより良い生活につながるという経験知をもたらしただけでなく、自分にはそれを実現できる才能が備わっているかもしれないとの自己認識を得たに違いない。井上毅の生涯には、自身の頭脳に対する強烈な自負心が貫通している。
 どのような時代社会であろうと少年が多感であるとすれば、飯田多久馬の10代は勉学に明け暮れた静的な時間であった。しかし時空が静的であっても精神が波静かとは限らない。幾度か成績を表彰されるほどの秀才であり、趣味の囲碁さえ自らに禁ずるほどの真面目な性格の多久馬でも、激情や奔放への誘惑を覚えずにはおられなかっただろう。しかし遺された史料からは、そうした「逸脱」は微塵も認められない。
 だが私は時習館居寮生時期(今で言えば大学院時代)の読書記録のなかに陸象三や王陽明の著書に言及した文章に注目したい。なんとなれば当時陽明学は異端の思想。大塩平八郎中斎の反乱の記憶も覚めやらぬ頃だった。そんな禁断の思想を齧ることさえ、エリート学生の飯田多久馬には「冒険」だったに違いない。敢えてそれを繙いたのは、多久馬にしてみると抑え切れない情熱の発露であったろう。
 20代前半、青年期の飯田多久馬、転じて井上毅の動揺は保守思想である程朱学と異端思想である陽明学の思想的格闘の表現形であったとも言える。思念の上では両者の間に限定されず、洋学やキリスト教も滔々と流入していた。実践的には徳川幕府熊本藩主、尊王攘夷派の間で揺れ動いた。後年の井上の「定見」からすると意外に思えるほど、青年期の彼は定まりない。
 そんな動揺の時期に、井上毅横井小楠と対談している。1864年は明治維新へと坂道を下るように急落する徳川幕府の末路の境目。横井はその頃、越前藩松平春嶽の招聘に応じて福井に滞在した後、京都で「武士にあるまじき逃亡」の罪を蒙って熊本城下から南東郊外の沼山津に閉居していた。横井小楠については説明を要しないだろう。幕府や禁中の政治の表舞台には登場しないが、坂本龍馬にも比される現代で言えば巨人フィクサーと言えよう。
 横井との対談記録としては後の明治天皇側近、元田永孚のものも有名だ。いずれも横井が維新なって天皇の側近に昇進した直後の1869年に暗殺されてから、しばしの時を経て記録され公刊された点で共通している。元田のそれに比較すれば井上のは対談形式を留めていかにもリアルである。記録の末尾に横井の発言として書き留められている(あるいは意図的に作為されている)通り、当日横井宅を訪うたのは井上の他に少なくとも一人はいた。つまりは井上毅は横井との対談を極めて重要な転換点と考えて、迫真性を強調しないではおれなかったのだ。
 そこで語られているのは何か。要言すると、横井の開新性と井上の守旧性の対比。横井は井上の問いに応じて「開国」、「富国強兵」、「思想信条の自由」を論じ、井上は悉くそれらに逡巡を表明している。まるで19世紀の合州国のように、この国は国内経済だけで自足できるし、従って敢えて「開国」の必要も、「富国強兵」の必然性もなく、ましてや世俗君主たる徳川将軍や超俗の天主たる天皇をも超越するというキリストを奉じる「邪教」を許す理由はない。公然と「井の中の蛙」を認めるような文書を、井上はなぜ遺したのだろう。
 時間的な正確さの上でこの時に論じられたのは、井上が記録した通りなのだろうと私は推測する。1864年から1869年に大学南校に就職するまでの紆余曲折、右顧左眄に照らせば、熊本藩の主流たる「学校派」に属した頑迷な保守たる井上毅の思想と行動に合致するからだ。戊辰戦の最中、上司たる長岡(米田)虎雄の東北陣中に馳せ参じて、この期に及んでも佐幕を訴えたというエピソードも伝わっているほどだ。思索の上では陽明学に共鳴する要素を蔵していても、生活実態からは保守主流から離脱できなかった井上毅の人となりを象徴するのが「沼山津対話」だと思うのだ。そして蔵書中に留めて後世に言い残そうとしたのも、自身の革新性ではなく保守性であった。明治時代は1880年代以降、復古主義を強めた。時代の推移に敏感であること、井上毅の右に出る者は多くない。