引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

大塩中斎とキリスト教

中斎が叛乱を起こす前、文政年間の終わりに驚くべき事件があった。1827年(文政12年)に起きたキリシタン処罰事件がそれだ。
 豊田貢が事件の首謀者として書かれているが、この人物は女性である。幕末のイデオロギー闘争史を追うと、豊田貢らの「キリシタン」弾圧事件は小さなエピソード程度にしか語られていない。豊田貢は富山出身の遊女であって、京に出て生活するうちに水野軍記という九州(唐津か豊前の者)から来た書道家にして思想家に感化されて、運勢吉凶占いを始め人気を博する。水野は18から19世紀への変わり目当時の風潮を帯びて、ある程度蘭学に知り染めた人だったと推測される。
 一方藤田顕蔵という蘭医がいた。徳島の生まれで大阪に生きた。興味の赴くままに蘭学を追究するうち、いつしかキリスト教に関しても相応の知識を獲得していた。この藤田と豊田とを結びつけたのが岩井温石という医者。彼が豊田の始めた「妖術」によって救われた経験がある、いわば豊田の弟子でもあった。折しもシーボルト事件が勃発。全国で係累が逮捕されるなか、なんと岩井も逮捕拘留され過酷な拷問を受けて、以前知り合った藤田の名を白状してしまう。
 豊田はその前に既に、彼女の新興宗教の隆盛をやっかむ者の讒言によって逮捕されていた。こうして岩井ー藤田ー豊田の3人がキリスト教を広めんとした犯罪者として結びつけられたというのが、この文政12年の大阪で起きた事件の真相らしい。3人とも磔刑に処せられている。
 さてこれらの「宗教弾圧」を取り仕切った当の人物が、大阪東町奉行所与力の大塩平八郎仲斎なのだ。陽明学者中斎は、キリスト教弾圧の急先鋒でもあった。「大虚」を内に蔵して、不義不仁を糾弾するに容赦ない個人を確立しつつあった大塩は、なぜキリスト教一神教を受け入れられなかったのか。当時オランダを介して微かに伝えられたキリスト教の教義とは、いかなるものであったのか。
 1830年代の大塩中斎を見ると、そこには儒学の一派としての陽明学、「大塩の乱」を鎮圧した土井利位・鷹見泉石ら蘭癖武士、そして豊田・藤田らの「キリスト教」が相交わっているようだ。その三者はいずれも体制のイデオロギーとは相容れざるものだったのに、中心から弾き出される物同士が争っている構図となっている。
 このエポックメイキングな時代については、是非ともよく調べて考えないといけない。