引井総男の何か

読書、音楽、写真、散歩などの気ままな記録

私説 井上毅伝2 離陸前

 幕末・維新期の井上が辿った動向は残された史料からしても明確ではない。この人は自身の歴史的な措定に無関心ではなかったから、当時を物語るものがないということは自らも語りたくない過去だと解釈して良いのではないか。とにかく故郷熊本と長崎や横浜との間を行ったり来たりしている。定まりない道行きの理由は、記録の限りではフランス語修業と病気。時習館居寮生出身の秀才にとっては、実に灰色の時代が数年間続いたことになる。
 熊本で燻っていた井上にとって転機となったのは、大学南校への就職だった。1870年(明治3年)9月、井上毅27歳の出発。大学南校に職を得るについては、大学本校で教授となっていた漢学の同窓によるとされる。彼が誘ったのか、それとも井上が働きかけたのかは判らない。ともあれ後年、功成り名を遂げた井上が「家」の存続のために長女の養子を求めたのは、その同窓の息子だった。
 井上毅というと、いかにも近代的官僚の魁のように見られる向きがあるが、よく観察すると地縁・血縁・人脈を非常に重要視する人物であるのが知れる。それについては後に触れるだろう。この時は郷里の先輩を頼って、運良く中央官僚への道を歩み始めた。
 大学南校は洋学を講じる学校。各藩が推挙した「貢士」と呼ばれる学生が在籍していた。外国人講師が主流の中で、かの中江兆民がフランス語の助講のような資格で学生指導に当たっていた。兆民と井上は3年後にフランスのリヨンで再会することとなる。それはさておき、南校での井上の仕事は大学管理の職員。学校職員という職は教員・教官よりも下に位置づけられる点で、今も昔も変わらない。熊本の秀才、井上毅がそんな屈辱にいつまで堪えられただろうか。果たして半年の勤務の末に、激烈な「意見書」を提出して退職する。
 この「意見書」も正体不明の文書の一つだ。一体誰に提出されたのか。そして管理職批判をぶってまでする「本気」が、井上にあったのか。ここでは学生の体たらく、貢士制度の不備、カリキュラムの不明朗さなどが糾弾され、そして最終的にはそれらの責が大学(当時は文部行政も統括していた)の「頭」に帰せられている。もっと国家的な見識を持つべきだと。正直に言って、就職早々の職員が言えるような内容ではない。端から撥ね付けられるのは目に見えるような代物だ。従って最初から「意見書」の提出によって大学南校を改革しようという意図はなく、言ってみれば「こんなところに誰が勤めるものか!」と憤激を叩き付けただけとしか思えない。更には実際には誰にも提出されていないのかもしれない。
 それから4年後に井上毅は、もう一つ次の「意見書」を提出することになる。それも内容は同じように激烈だが、宛名は明記してある。右大臣岩倉具視だ。
 井上毅の生涯において決定的な出会いが、これから数年間に現れる。